君の昔を 6


 まだ早朝だというのに、リビングではギルモア博士や張々湖、そしてグレートが勢揃いして待っていてくれた。
「おい、ジョー。ビッグニュースだぜ! とにかくこれを、読んでみろよ!」
 フランソワーズに勝るとも劣らない弾んだ声とともに、グレートが差し出したのは多分今朝、届いたばかりの新聞。
 おずおずと開いてみた紙面には、信じられない文字が躍っていた。
(Y市教会放火殺人事件に目撃者)
(『少年A』は無実?)
(小紙記事がきっかけか)
 はっとして顔を上げれば、みんながにこやかにうなづいてくれる。ジョーは、食い入るように記事を見つめ、活字を追った。
「…去る×月×日付の小紙紙面に掲載した教会放火殺人事件に昨日、五年ぶりの目撃者が現れた。名乗り出たのは都内在住のO氏(四五歳)で、事件発生当日、殺人現場となった教会から逃走する中年の労務者風男性を目撃したとはっきり証言している。O氏の語るその場の状況等が当時の捜査本部の捜査記録とぴったり一致していることから、この証言はかなりの信憑性を持つものと思われ、捜査本部でもO氏の協力のもと、さらに詳しい検証を進める方針である」
「…五年間の沈黙の理由は、当時O氏が有印私文書偽造及び商法違反の容疑で指名手配されていたことにあった。目撃時点で自らも逃亡中であったため、警察へ通報することができなかったO氏はその後逮捕され、懲役三年の実刑判決を受けて服役、先月出所してきたばかり。この事件については、すでに解決したものと思ってすっかり忘れていたそうである。ところが先の小紙記事で、無関係の少年が容疑者として連行され、護送中逃亡して行方不明になっていることを知って驚き、旧勤務先の上司に相談、その上司から顔見知りの都内H署刑事を紹介され、すぐさま名乗り出たという」
「たまたまその刑事が似顔絵を得意としていたことも幸いして、H署では早速逃げた男の似顔絵を作成、O氏の証言とともに当事件の所轄署であるK県M署に提出、再捜査を依頼した」
「O氏の談話『すでに解決済みだと私が勝手に思い込んでいた所為で、無関係の少年が濡れ衣を着せられてしまったことには何と言ってお詫びをしていいかわかりません。ですが、真犯人は間違いなく私が目撃したあの男だと思います。教会の裏手から妙にこそこそと、人目を避けるように飛び出してきましたし、服にも返り血のような染みがついていました。そのあとで、まだ若い男性の悲鳴と泣き声も耳にしております。おそらくそれが、第一発見者であるあの少年の声だったのでしょう』」
 一度だけでは足らず、何度も何度も記事を読み返すジョー。それを見つめるフランソワーズ、ギルモア博士、そして張々湖とグレートの笑顔も、いつしか半分、泣き顔になる。
「よかった…よかったな、ジョー! これでお前の濡れ衣も晴れるぞ!」
「もう、大丈夫アルよ。何も…心配しなくて、いいんアル!」
 ばんばんと荒っぽく背中を叩くグレート、喜びの涙にくれて何も言えなくなってしまった張々湖。ギルモア博士は満面の笑みをたたえ、ただ、うなづくだけ。
 そして。
「ジョー…」
 笑顔のはずなのに、その澄んだ水色の瞳に一杯の涙をためて、ただじっと自分を見つめる金髪の少女。
「フランソワーズ…」
「よかった…よかったわね、ジョー…よかった…」
 そのまま泣き崩れてしまったフランソワーズの肩をしっかりと抱きしめ、その髪に顔を埋めながらもまだ、ジョーには実感がわかない。
(だけど、一体どうして…)
(いくら目撃者にあんな事情があったとはいえ、何もかもが、こんなに突然うまくいくなんて…)
 考え込んだ脳裏に、突然ひらめいたあのときの記憶。
(松井さん!)
 あのとき、松井警視は自分の言葉を信じると言ってくれた。そして、あれからも根掘り葉掘り訊かれた真犯人の人相、当時の状況。そればかりか、最後には半ば無理矢理、その似顔絵まで描かされて―
 さんざん苦労した挙句、ジョー本人に言わせればまるで漫画、いや、子供の落書きのような稚拙な絵をどうにか仕上げて、そのまま松井警視に渡してきたはず。
(まさかこれは、全部松井さんが―!?)
 はっとして顔を上げたジョーを、その場にいた全員が怪訝そうに見上げた。
「どうしたんじゃ?」
「ギルモア博士…! 僕…これからすぐに、石原先生のところへ行ってきます。どうしても、確かめたいことがあるんです!」
 勢い込んで叫ぶジョーを、博士がそっと押しとどめた。
「まあまあ、ジョー。まだ朝の七時前じゃぞ。もう少し待って、そう…ゆっくり食事でも済ませてから、行っておいで」

 それからの一時間少々が、どんなに長かったことか。時計が午前八時を指したと同時に、ジョーはギルモア邸を飛び出した。急ぎのこととて今日も車を使ったが、もうサングラスをかける必要はない。この前と同じ場所に車を停め、今度こそ堂々と大通りを―石原医院に向けて走る。
 到着したのは八時四十五分。診療開始、十五分前。
「あ…島村クン!」
 玄関からひょいと顔を出した石原医師のきょとんとした顔が、たちまちみんなと同じ笑顔になる。
「あれを読んだら、すっ飛んでくると思ってたよ。…さ、上がって」
「すみません…診療開始間際の、こんなお忙しい時間に」
「いいからいいから。…親父ぃー、お袋ぉー。俺今日、出るの九時半頃からにするから。何かあったら声かけてくれよな」
「あいよー」
 ジョーを案内しながら石原医師が診察室の奥に向かって声をかければ、いかにものほほんとしたあくび混じりの返事が返ってきた。全くもって、呑気な医院である。
 二階の石原医師の自室に上がろうとしたとき、廊下を歩いてきた俊之とばったり顔を合わせた。俊之もまたここの医療事務総括責任者である。この前のような普段着ではなくきちんとワイシャツとネクタイを身につけた姿はまるで別人のようだったが、そんな彼もまた、にっこりと笑ってうなづいてくれた。
 そして。
「訊きたいことはたくさんあるだろうけど、その前にこれを読んでよ。昨日、松っちゃんが仕事の帰りに届けてくれたんだ。君は松っちゃんのマンションも実家も知らないし、いくら何でもいきなり警視庁に訪ねてくるわけもないから、まずはここに来るだろうって」
 部屋に入った途端、差し出された一通の封書。表面に記されているのはただ、「島村ジョー様」という文字のみ。松井警視の人柄そのまま、達筆ではあるがえらく大きい、天衣無縫そのものの筆跡である。封を開けてみれば、中には一枚の便箋。

「お前を誤認逮捕し、殺人犯の汚名を着せたことは、警察官の一人として心から申し訳なく思っている。すまなかった。
俺にできる償いはこれくらいしかない。この先の再捜査がどう転ぶかもまだわからんが、お前にとって、これ以上不利な方向に進むことは決してないだろう。真犯人逮捕は無理でも、お前の冤罪は必ず晴らせると、俺は信じている。
松井 元人」

「松井さん…」
 言葉を失ったジョーに、石原医師の穏やかな声が語りかける。
「あの目撃者―『O氏』ってね、『光順会』の幹部で岡島さんって人なんだ。で、『相談した旧勤務先の上司』っていうのは大親分の光井さん。似顔絵を描いてくれた刑事さんは、所轄署の月野さんだよ。『エンジェルキッス』事件のとき、名前だけは聞いてるんじゃないかな。…ほら、松っちゃんたちと一緒の囮捜査で、日本酒二升七合空けた女傑。僕も知らなかったんだけど彼女すごく絵が上手で、刑事のほかにれっきとした『似顔絵捜査官』の肩書きも持ってるらしいから…君から聞いた犯人の特徴と描いてもらった絵をもとに、あらためて描き直してくれたんだそうだよ。…あ、月野さんからの伝言も頼まれてたんだ。君の絵、描線がのびのびしていてとてもよかったって。ただ、将来画家になろうと思ったら、最低二十年くらいデッサンの勉強をしなきゃだめだってさ」
 言いつつ、石原医師が自分で自分の言葉に笑う。だがジョーは、笑うどころではない。目を大きく見開き、ただひたすらに松井警視からの手紙を見つめているだけである。
 そこでふと、石原医師の表情が厳しくなった。
「…実は、ね…今回の件は全て松っちゃんのでっち上げなんだ。岡島さんの過去自体は確かに新聞に書いてあった通りだけど、彼はあの事件を目撃などしていない。彼が語ったのは、全て君の証言だ。表に出られない君のかわりに、真実を語ってくれる人―五年間沈黙を保っていたのも当然だと、世間を納得させられる人―その条件にぴったりの岡島さんをたまたま松っちゃんが知っていたのは奇跡のような偶然だったと思うよ。だからこそ、こんな思い切った手段に出られたんだね」
 そこで、一息ついて。
「M署の森村署長と『光順会』からの協力は取りつけたものの、松っちゃんは用心深かった。おあつらえ向きの目撃者だからこそ、岡島さんが直接M署に出頭したりしたら、森村署長の差し金だと勘繰る人間が出てくるかもしれないと心配したんだね。何しろあの人は筋金入りの『少年A冤罪論者』として署内でも有名だから。そこでさらに月野さんを仲間に引き入れ、M署とは全く無関係のH署に届け出てもらい、月野さんに一通りの事情聴取と似顔絵作成をしてもらった上で、正式にH署からM署に再捜査依頼が行くように仕向けたんだ。そのときの調書は岡島さんと月野さん、そして森村署長の合作。君の証言は真実だったけど、あのとき君はずっと礼拝堂の中にいたから外の状況なんかはわからなかったろう? だから二人は調書の下書きをこっそり森村署長に見てもらい、『戸外』における目撃証言としては不十分な部分なんかを全部添削してもらったのさ。そのときの資料は五年前のM署の調書。ふふ…そりゃ、当時の捜査記録と一致して当たり前だよね。でもって森村署長は何食わぬ顔でM署に戻り、H署からの再捜査依頼を目にしてびっくり仰天、慌てて再捜査本部に活を入れる…それが筋書きの全てだよ。緻密かつ大胆、大掛かりな偽証さ。公けになればもちろん、立派な犯罪として関係者全員逮捕されること間違いなしの危険な賭け―『もしものときにゃ一蓮托生よ』なんてワルぶってたけど、もしばれたら松っちゃんはきっと、自分が他のみんなを騙したんだと―全ての罪を自分ひとりでかぶる覚悟でいるに違いない」
 話し終えた石原医師が姿勢を正し、ジョーに向かって深々と頭を下げた。
「本来なら、君の無実はすぐさま証明されるべきものだ。こんな回りくどい手を使って再捜査の結果を気長に待つなんて、君にとっては不本意極まりないこともよくわかってる。…でも松っちゃんも、自分の全てを賭けて大博打を打ったんだよ。彼にできるのは、これが精一杯だったんだ。だから―だからどうか、松っちゃんを…警察を、許してやってくれないか。頼む―!」
「そんな…そんな…先生!」
 ゆっくりと便箋から顔を上げたジョーの頬にこぼれる、一粒の涙。そして、栗色の髪の少年は激しく首を横に振りながら、しっかりと石原医師の手を握った。
「不本意だなんて―文句なんて、言えるはずありません! 松井さんが、そんなことまでして僕の無実を…もう、それだけで充分です…充分…すぎ…ま…す…」
 言葉の最後は、嗚咽に飲み込まれた。後はただ、声無き号泣。震える肩にそっと手を差しのべ、石原医師が静かに、その背中をなでる。
「僕は…今までずっと…自分が幸せだなんて思ったことがなかった…生身の頃も、サイボーグになってからも…。素晴らしい仲間には巡り会えたけれど…心のどこかに、この事件のことが…自分が『人ならざるもの』に変わってしまったことが…引っかかっていて…」
 ふと顔を上げれば、石原医師が優しい目で自分を見つめていた。何もかも―全てを了解した上で、それでもなお自分を受け入れてくれる、もう一人の理解者。
「だけど…今なら、はっきりと言える。…僕は、幸せだと…たとえこのままずっと冤罪が晴れなくても…この体が、全て…造り物になってしまっても…僕のために…仲間以外に…こんなにも一生懸命になってくれた人たちがいた…。それだけで、僕は―。僕は…幸せ…です!」
「そうか…よかった。…でもね、みんなが懸命になってくれたのは、決して松っちゃんの説得だけが理由じゃないよ。少なくとも『光順会』の二人は、君だから―君を助けるためだからこそ協力してくれたんだ。それだけじゃない。僕だって、松っちゃんだって、相手が君という人間だから、その言葉を信じた。そして、松っちゃんの君への信頼が本物だったからこそ、森村署長や月野刑事も動いてくれたんだ。君を助けたのは、半分は君自身でもあるんだよ」
「そんな…」
 言いかけたジョーを、石原医師の温かい視線がそっとさえぎった。
「いいや。これは真実だよ。だって君は―島村クンは、優しくて誠実で、そして真っ直ぐな―僕たちがこれまでに出会った中で、最高に素晴らしい人間のうちの一人なんだからね」
 そこで、ほんの少しだけ―。照れくさそうに、視線をそらして。
「僕は、君たちと―君と出会えて―友達になれて、よかったよ。きっと松っちゃんも、同じことを言うと思う」
 ジョーの目に、新たな涙があふれた。幼い頃から、混血児だ、孤児だというだけで周囲の人間に疎まれ、白い目で見られていた自分。たった一人、そんな自分を愛しみ、慈しんでくれた神父をもあんな形で失い、自らもサイボーグにされてしまったあとは―もう、誰も―仲間たち以外の誰も自分を受け入れてくれることはないだろうと、半ば諦めていたというのに。
 今、すぐ目の前に、あのときの神父と同じ瞳で自分を見つめてくれる人がいる。仲間たちと同じ、深い信頼を寄せてくれる人間がいる。しかも彼は、「そう思うのは自分だけではない」とまで、言ってくれて―。
「石原先生―!」
 心のどこかから湧き上がってくる、言いようのない温かい感動にジョーは震え、初めて知った。…人は…恐怖や怒りだけでなく、喜びのあまり…震えることも、あるのだと。
「僕の方こそ…先生や松井さんと知り合えて―友達、と呼んで頂いたことを心の底から感謝します…。それだけじゃない。光井さんにも、岡島さんにも、森村署長にも月野刑事にも。たとえ直接会って伝えることができなくても、いつか必ず、伝えたい―! 『ありがとう』という言葉を。自分でもどうすることもできないくらいの、この、感謝の思いを―!」





 そう。
 確かにジョーが、今回の関係者全てにそれを直接伝えることは無理だったかもしれない。
 しかし、まさにそのとき―。彼が涙とともに心からの感謝を叫んだ、その瞬間に。





 自室で愛刀の手入れをしていた光井が。
 「光栄建設」経理部で、自分がいない間に滅茶苦茶になってしまった帳簿類を三日間徹夜で整理して、疲れた目を押さえていた岡島が。
 署長室にあの事件の再捜査本部の面々を集め、檄を飛ばしていた森村署長が。
 五人の子供たちと一緒に家を飛び出し、懸命に走ってようやく勤務先にたどり着いた月野刑事が。
 そして、警視庁の自分のデスクで、上役の嫌味を聞きながら半分居眠りしていた松井警視が。





 ふと、温かく切ない―泣きたくなるほど真摯な思いに満ち溢れた誰かの声を聞いたような気がして顔を上げ、遠い目をしてその声の主に思いをはせていたなどとは、ジョーにも石原医師にも、思いもつかないことだったのであった。

〈了〉

 


前ページへ   二次創作1に戻る   玉櫛笥に戻る