君の昔を 4
それから数日ののち。松井警視は一人のんびりと、かつて「エンジェルキッス」事件の舞台となったS川のほとりを歩いていた。向かっているのは光栄建設本社、いや、正確にはその裏手にある光井順三郎邸である。
豪邸とまではいかないが、東京二十三区内にしては中々立派な純和風の屋敷。応対に出てきたお手伝いらしい少女に案内された奥座敷には、光井ともう一人―痩せぎすで背の高い、眼鏡をかけた中年の男が松井警視を待っていた。
「おお、これはこれは…先だっては大変お世話になりまして、お礼の言葉もございませんですじゃ」
「いいってことよ。それより爺さん、相変わらず元気そうで結構なことじゃねえか。それに…」
座卓を挟んで光井の向かい側にどっかりと胡坐をかきながら、松井警視は老人の背後に控えている男に視線を移す。
「お前ぇも思ったより元気そうだな、岡島。いつ出てきた?」
岡島と呼ばれた男は深々と頭を下げ、てきぱきとした、しかし礼儀正しい口調で答える。
「ちょうど、半月前になります。おかげさまで住まいその他もようやく落ち着きましたので、来月からはまた、会長のところでお世話になることになっております」
「いやもう、彼が『おつとめ』で留守をしている間、うちの経理はてんやわんやでしてな。社員一同、今から首を長くして彼の帰りを待っておるんですわい。…さすがに、元の通りの経理部長というわけには参りませんが」
「別にいいんだぜ、部長になっても。真面目な会計業務や税理事務だけを仕切るんならな。…ただし、もう二度とおかしな細工するんじゃねえぞ。…お前の作った偽造保険証や裏帳簿のおかげで所轄や税務署がどれだけ苦労したと思ってんだ? おまけに、バレたと同時に尻に帆かけてトンズラこきゃあがって、二年半もちょこまかちょこまか、日本中逃げ回ってよ。とっ捕まったのは小樽だったって話じゃねぇか。だから実刑なんか喰らったんだぞ。素直に自首してりゃ、執行猶予間違いなしだったのに」
辛辣な言葉を聞いても、岡島はただ、穏やかな微笑をその細面に浮かべただけだった。
「…あのときは、ちょうど妻と離婚したばかりで私も淋しかったんですよ。警察の皆さんにでも誰にでも、ちょっとでも長く構ってほしかったんです」
「けっ! よく言うぜ。お前にニョーボがいたなんて話、俺ゃ聞いてねえぞ。もっともこいつだけはそこかしこにいるらしいがな」
立てた小指をぐいと突き出され、岡島が照れたように頭をかく。光井が、苦笑しながら二人の間に割って入った。
「まあまあ、もうそのあたりで勘弁してやって下され。…それより松井さん、先日のお電話の件ですが…」
「おっといけねえ。こいつからかうのに夢中になって、危うく忘れるトコだった」
そこで、姿勢を正した松井警視。光井の表情も鋭くなる。ただ、岡島だけは眉一つ動かさず、ひっそりと光井の後ろに控えていた。
「今日ここに来たのは他でもない。無実の人間を一人、助けるのに手を貸してほしい」
「ほう…!」
光井の目が、きらりと光った。
「他ならぬ松井警視のお頼み、それも無実の人間を助けるとあれば一も二もなくお引き受けすべきなのでしょうが…その前に、もう少々詳しい事情を話していただけませんかな。何も聞かずにただ手を貸せ、とおっしゃられても困りますじゃ」
光井の言葉に、松井警視は意外そうな顔になった。
「こりゃまた…『光順会』大親分の仰せとも思えねえ台詞だな。『弱きを助け、強きをくじく』、『困っているものを見捨てるのは男が廃る』ってのが極道の仁義、お前さんたちの信念だったんじゃねぇのかい」
光井の顔に再び、苦笑が浮かぶ。
「確かに、お言葉の通りです。もしこれが、『わしに』何かをしてほしいということでしたら、一も二もなくうなづいておりますですよ。じゃが、貴方は先のお電話ではっきりと、岡島を同席させろとおっしゃった。と、いうことは…一応わしに話を通すにしても、実際に動いてほしい相手は岡島だということですじゃろう。しかも」
一瞬言葉を切った光井の顔から笑みが消え、ぎろりと松井警視を睨みつける。
「現職の警察官である貴方が、わしらのような裏家業の者に頼みごとをなさる。…ということは、あまり大きな声では言えない類の…ヘタをすれば、手が後ろに回りかねん企みなのではないですかな?」
松井警視は肩をすくめた。…あかん。この爺さんにゃ、どんなごまかしも通用しねえらしい。だがもちろん、光井がそんなことを斟酌するはずもない。
「この岡島は、さっき貴方が言われた事件の際にわしを始め社員全員をかばい、出奔して―長い、孤独な逃亡生活の果てに自分一人で罪を背負い、立派におつとめを終えて娑婆に出てきたばっかりの男なんですじゃ! そんな人間を再びムショに逆戻りさせかねんようなご依頼なぞ、いくら相手が貴方とは言えそう簡単にお引き受けすることはできませんぞ!」
「会長…。私のことでしたら、どうぞ、お気遣いなく…」
激昂した光井をなだめるように、岡島が背後から静かに声をかける。だが、光井はそんな岡島にも厳しい目を向けて―。
「岡島。お前は、黙っていなさい」
「は…」
静かな、しかし一切の反論を許さぬ声音に、岡島は深く頭を下げ、そのまま引き下がる。光井はそこで、火を噴くような視線を再び、松井警視に向けた。
「少なくとも、どこのどなたの濡れ衣を晴らすのか、その裏にどのような事情があったかくらいは聞く権利があると思いますぞ、わしらには」
老いたとはいえ、「光順会」大親分としての底力を存分に感じさせる気迫であった。観念した松井警視が、小さくため息をつく。
「…確かにそうだな…あんたたちには、最低限の事情を知る権利が…あるんだよな。わかった。全部話す。俺が助けてやりたい相手は島村ジョー。この間の『エンジェルキッス』事件であんたたちとも顔を合わせたことのある少年だ」
「エンジェルキッス」と聞いて、光井がはっとしたような顔になる。
「おお…おお、覚えております。あのときのバカどもを捕まえるのに協力してくれた方々のうち…確か、どこか日本人離れした顔立ちの、可愛らしい坊やでしたのう」
「ああ。その通りよ。実は、あのガキ…な」
軽くうなづきかけて、松井警視は五年前の事情を説明した。今回は、ジョーたち00ナンバーの正体についても正直に打ち明ける。何といっても前回、光井には彼らの乱闘を目撃されているし、岡島もまた、ちっとやそっとのことで動じるようなタマではない。
やがて。全てを聞き終わった光井が、腕を組んで考え深げに目を閉じる。
「そう…ですか。あのときにはそんな事情があるとは思いもつきませんでしたが…。ただ、何か秘密のある方々だとは思うておりましたじゃ。あのときのお一人、銀色の髪をした―確か、独逸人でしたな―その方はわしの刀を素手で受け止められましたからな。その坊やとて、うちの若い者の一撃を同じく、素手で受け止めたと聞いております。本身の刀や金属バットを思い切り叩きつけられたら、腕が切り飛ばされるか、骨が砕けて当たり前。なのにあの方たちは平然と―あのあと、崎田の霊前にお参り下さったときも、ギプス一つ、包帯一つつけてはおられませんでしたからのう」
「そのかわり、あれから三日間、最悪の二日酔いで寝込んでいたらしいがな」
そのときの「惨状」を思い出した松井警視の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。一方の光井は、それからしばらくの間目を閉じたまま―
「…岡島、よ」
やがて目を開けたその唇が、そっと背後の男の名を呼んだ。
「は…」
小さく一礼した岡島が、ずい、と膝を進める。
「すまんがここは一つ、もう一度だけ綱渡りをしてくれんか。その、島村とかいう坊やには恩義があるし…それを別にしても、素直で優しい、よい子供じゃった。できることなら、助けてやりたい」
岡島もまた、大きくうなづく。
「もちろんです、会長。今のお話を伺って、私はたとえ会長のお許しがなくとも松井警視に協力させていただくつもりでおりました。崎田専務…いえ、崎田の兄貴とは私も義兄弟の杯を交わした仲です。兄貴の仇討ちに手を貸して下さった方を助けるためなら、どんなことでも致します」
「悪いな、岡島…だが、もしまたムショに逆戻りしたとしても、今度は俺が一緒だ。そうそう、お前に不自由な思いはさせねえぜ」
自信満々、胸を叩いた松井警視に、岡島は小さく笑った。
「…お言葉を返すようですが、あちらでは私の方が先輩ですからね。僭越ながら、警視のお世話は全て、私がさせていただきますよ」
「それもそうだ」
たちまち起こる楽しげな笑い声。松井警視の、光井の、そして岡島の屈託のない笑い声が、よく晴れた秋の空に吸い込まれていく。
やがて、それがおさまった頃。岡島が、つと松井警視の方に向き直った。
「それで結局…私は具体的に、どのようなことをすればいいんですか?」
森村署長に、話は通した。「光順会」にもかけ合った。残るは最後のバケモノ、いや、大物のみ―。松井警視は大きく深呼吸をして心を落ち着けると、意を決して目の前の建物―T区H警察署へと足を踏み入れた。
先の「エンジェルキッス」事件で応援に来ていたおかげで顔見知りは多い。廊下を歩いていくだけで、何人かの刑事たちが懐かしそうに声をかけてくる。本庁キャリアが所轄へ出張っていったりすると、それだけで無用な反発を食らってしまうことも多いが、松井警視はほとんどそんな目に遭ったことはない。それはひとえに、彼の人柄の所為であろう。
出世にはほとんど興味がないし、いざとなればこのまま定年まで警視のままでいてもいいと思っている。というより、一般の警察官では中々登りつめることのできない「警視」という階級に、たかが入庁前の試験一つに受かったというだけで簡単にたどり着いてしまったのだから、あとはもうどうでもいい、というのが本音だったりする。
だから、所轄との合同捜査のときにはよっぽどのことがない限り手柄も譲るし、現場への命令系統や何かに問題があれば、本庁に帰ると同時に速攻で上層部に噛みつく。結果、「切れ者だが扱いづらい奴」と上役連中には鬱陶しがられ、本庁でも半ば「放ったらかし」のような扱いを受けているが、それと引きかえに得たものは決して小さくはなかった。
そう、例えばこんなふうに。
「よ、ミキちゃん。久しぶりだな」
「まあ、松井警視!」
顔なじみの若い婦人警官に声をかければ、すぐさまこうして嬉しそうにすっ飛んできてくれる。二言三言交わす他愛ない世間話にころころ笑ってくれるのが嬉しい。
「…もう、警視は本当に面白いことばかりおっしゃるんですから。とても、本庁のキャリアとは思えませんよぉ」
「クビになったら吉本に行くからよ、ナンバ花月で初舞台踏んだら観に来てくれや。…ところで、月野いるか?」
「月野巡査部長ですか…? ええ、確か今日は署内にいらっしゃるはずですけど」
「悪りぃが探してきてくれねえかな。この間のヤマの調書でちょいと相談したいことがあってさ、できれば内密に話がしてぇんだ。…応接室なんかも貸してくれたら、アタシ、すっごく嬉しいんだけどォ」
「やだ、何ですか、それ」
「山咲トオルちゃんの真似よォ。似てなぁい?」
大きな身体をくねくねと動かしただけで、婦人警官は笑いを我慢できずにその場にしゃがみこみ、膝を抱えてふるふると肩を震わせている。それでも何とか気を取り直して立ち上がると、すぐさま応接室に案内してくれた。若い女の子に頼みを聞いてもらうには、笑わせるに限る。
「それじゃ私、すぐに月野さんをお呼びしてきます」
「ああ、頼む。茶だの何だのは気ィ使ってくれなくていいぜ。それより、彼女が来たらしばらくの間は誰も近づかないようにしといてくれると助かる」
「了解致しました」
軽く敬礼をして走り去る婦人警官を見送り、松井警視は一人、応接室に入る。
(さ、これからが正念場だぜ)
ソファに腰を下ろしながら、手にしたアタッシュケースをそっと脇に置く。いつもなら、めったにこんなものを持ち歩いたりはしないし、こういう場においては手荷物を置くのは足元、という作法もわきまえている。
だが、今日ばかりは絶対にこいつを傍らから離すわけにはいかない。
(いくら何でもよその署に防弾チョッキ着込んでくるわけにゃいかねえしなぁ…)
だが、話が話だし相手が相手だ。さすがの松井警視といえども、防具なしでこの場に臨む度胸はなかった。そこで、近所の鉄工場のオヤジに頼み込んで厚さ七ミリの鉄板をカットしてもらい、アタッシュケースの内側にしのばせてきたのである。いざとなれば、これで自分の身を守るつもりであった。一メートル足らずの至近距離で拳銃をぶっ放されて無事に済むかどうかはわからないが、ここまできたらもう、運を天に任せるだけである。
やがて聞こえてきた軽いノックの音。松井警視の体が、びくりとこわばる。
が―。
「まあまあ、大変お待たせしまって申し訳ありませんでした」
入ってきた月野刑事は年の頃なら四十代半ば、小柄でぽっちゃりした顔つき、そして体つきが何とも可愛らしい女性であった。実年齢よりは確実に三、四歳若く見える上、色白の肌も美しく、いつもにこやかに細められているその瞳は、真顔になるとかなり大きくて―時折、ぞくっとする色気を漂わせることがあるのもよく知っている。刑事じゃなくて、ちょいと粋な小料理屋の女将になってもぴったりはまる、そんな女だ。
だが、どんなに可愛らしくても、色っぽくても―彼女が取り扱い要注意の危険物であることにはまるっきり変わりがなくて―。
「浜崎巡査からは、先の事件の調書についてのご相談と聞きましたが…何でも、内密なお話とか」
テーブルを挟んで反対側に座った月野刑事の表情が引き締まる。こちらを見つめる黒目がちの瞳がぞくりとするほど艶かしい。だが本人はそんなこと、まるっきり気づいていないのだろう。
「あ…ああ、確かに…。内密の話にゃ、違いないんだが…」
柄にもなく口ごもってしまったのは、その艶かしさの所為か、それとも…。
「先のヤマとは全くの別件だ。とあるガキの冤罪を晴らすのに、あんたの手を貸してほしい」
月野刑事の瞳が、すい、と細められた。だが、笑顔を浮かべたわけではない。
(危険レベル1、ってトコだな…)
隣に置いたアタッシュケースの持ち手をしっかりと握りしめ、松井警視はこれまで以上に慎重に…目の前の女を必要以上に刺激しないよう、言葉を選んでゆっくりと、例の事件のあらましを話し始めた。その内容は先に森村署長に語ったものと寸分違わなかったが、薄氷を踏むような緊張感と気疲れはあのときの比ではない。
特に、逃亡したジョーが追いつめられて崖から海に飛び込み、そのまま生死不明とされている部分は要注意だった。当時の所轄署や担当者の名前なども、決して言えるわけがない。途中でぶちキレて拳銃でもぶっ放されたり、M署に殴りこみなんざかけられたひにゃ、この計画は一巻の終わり。「懲戒免職」「実刑」…そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。いや、それ以前に松井警視自身の人生そのものがこの場でぶった切られてしまう可能性も充分、あるわけで。
全てを話し終えたとき、松井警視の神経はすっかり擦り切れ、言いようのない疲労感に軽いめまいすら覚えていた。だが、それでもアタッシュケースを離さないのは、見上げた命根性というものであろう。
そして、月野刑事は。
先ほど細められた瞳が、今は限界まで大きく見開かれ、瞬きもせずにテーブルの一点を凝視していた。膝の上に置かれた手は固く握りしめられ、かすかに震えている。そして、全身から立ち上る、怒りのオーラ。
(ヤベぇ…レベル2すっ飛ばして、いきなりレベル3に突入しやがった…)
ごくりと生唾を飲み込んだ松井警視の耳に聞こえたのは、喘ぐように掠れた声。
「何て…ことを…」
月野刑事の両手がテーブルの上に勢いよく叩きつけられ、置いてあった灰皿が派手に跳ね上がった。
「そんな杜撰な捜査で、まだたった十八の子を…っ! 十八っていったら、うちの長男より二つ年上なだけじゃありませんか! それを、いい年した連中が寄ってたかって、追いつめて…っ! どんなに心細くて、怖くて、哀しかったことか…可哀想に…」
小柄な体がさっと立ち上がり、鬼神もかくやという形相で松井警視に食ってかかる。
「そんなバカどもを飼ってるのはどこの署ですか!? そんな奴らに警察官を名乗る資格なんかありませんっ! 俸給支払ってるだけで、国民の税金の無駄遣いですわ! いえ、全員この世から消えてもらった方が市民のためですっ!」
「うわ…月野、早まるな! 落ち着け! 待て! ステイ!」
そのまま飛び出していこうとする月野刑事を、松井警視が抱きつくようにして引き止める。ぽっちゃり、ふっくらした体の抱き心地は男にとってこたえられない感触だが、当然、そんなことで鼻の下を伸ばす余裕なんかない(←おまけに最後の方、犬か何かと間違えてるし。大丈夫か、松っちゃん…?)。
「今ここで騒ぎ起こしたら、そのガキの濡れ衣晴らしてやることができなくなるんだぞっ。だから…とにかく今は、最後まで俺の話を聞いてくれ!」
絶叫に、ようやく月野刑事が松井警視を振り返った。
「濡れ衣を晴らす…そんな手立てが、あるんですか…?」
「ある! ほとんどバクチに近いが、成功すりゃ、再捜査やってる連中のケツ叩いて本腰入れさせるきっかけには必ずなるはずだ。そのために、あんたの協力が必要なんだよ!」
恐怖と緊張のあまり、松井警視の声は完全に裏返っていた。そこでようやく、月野刑事も元通り、ソファに腰を下ろす。表情も、一応は普段の彼女に戻ってくれたようだ。
そして。しばらくの沈黙のあと、ふと顔を上げた彼女がこう言ってくれたとき、松井警視は安堵のあまり、危うくその場で失神するところであった。
「…わかりました。私にできることがあれば何でも致しましょう。でも、具体的には一体、何をすればよろしいのでしょうか?」