君の昔を 1


 ご注意
 このサイトでの二次創作は基本的に原作ベースで書いておりますが、この話は平ゼロベース、ジョーくんが改造されてから五年後という設定になっております。そのため、他の話と多少矛盾した記述が見受けられるかもしれませんが、「外伝」ということでどうかお目こぼし下さいますようお願い申し上げます。



 いつもと変わらぬ平和な朝。少し寝坊をしてしまったジョーは、慌てて着替えと洗面を済ませ、リビングに下りていった。
「あら、おはよう!」
 フランソワーズの明るい声に、ちょっと照れくさそうに頭をかく。
「おはよう、フランソワーズ。寝坊しちゃって、ごめん」
「いいのよ。寝坊って言ったってほんの少しじゃない。…それに、今日はみんな起きてくるのが遅くてね。張大人やグレートも、お店の開店に間に合わないって、大慌てで出て行ったわ。ギルモア博士もまだ眠っていらっしゃるみたい。だから全然、気にすることなんかないのよ」
 笑いながら、彼女が自分の前に並べてくれた朝食。例の「エンジェルキッス」事件のあと、海外在住組がみんな国へ帰ってしまったおかげでたった一人で食べなくてはならないのは淋しいが、キッチンで洗い物をしているフランソワーズが口ずさむシャンソンというBGMつきなら、それも大して苦にはならない。
 ジョーは微笑んでこんがりと焼けたトーストに食いつき、温かいコーヒーを一口すすった。ついでに、テーブルの上に放り出されていた新聞に手をのばす。
(あれ…?)
 いつもなら張々湖やグレートが先に読み、少しくたびれているはずの新聞紙が今朝は妙にぱりっとしている。ハムエッグの皿を持ってきてくれたフランソワーズに訊ねると、急いでいた二人は新聞など手にも取らずに出かけてしまったのだそうだ。
「だから今朝は、貴方が一番よ。…実は私もまだ読んでないの。だから、読み終わったらそのまま置いといてもらえる?」
「うん、わかった」
 うなづいて、ジョーは新聞を広げる。一瞬、「お行儀悪いわね」と肩をすくめたフランソワーズは、苦笑しながらまたキッチンへと戻っていった。
 政治面や経済面、家庭面などにも一応は目を通すが、一番丁寧に、時間をかけて読むのは国際面と社会面。なぜなら―。
 「ヨミ」での戦いの後、ぱったりと活動を止めてしまったBG。だが、奴らが完全に滅び去ったという保証はない。あの魔神像の中、三つの脳が放った台詞が、今でも脳裏にこだまする。
(―BGハ人間タチノ心カラ生マレタモノダカラダ。人間ノ悪ガ、ミニクイ欲望ガ作リアゲタ怪物ダカラダ!)
 いつ復活するかわからない怪物。決して、滅ぼすことのできない魔物。ならば自分たちにできるのは、その悪の芽が枝葉を茂らせないうちに徹底的に叩き潰すことのみ。そして、その芽を発見するのに一番重要なのはこの二つの部分であることをジョーは、いや00メンバー全員はよく知っていた。
 だから―ここだけは重点的にチェックしておかなければ。そう、他のみんなも同じ気持ちでいるに違いない。遠いアメリカで、ドイツで、そしてアフリカで。みんなきっと、ニュースや新聞は欠かさずチェックしているはず。―そう、それが僕らの戦いの第一歩。一番大切な、防衛のための最前線―。
 国際面には、目新しいニュースはなかった。ジョーの手が、ぱらりと新聞をめくる。
 そして、社会面を開いた途端―。ジョーの目に飛び込んできたのはBGとはまったく別の、そのくせ奴らの復活以上に衝撃的な、こんな見出しだった。
『犯人不明のまま五年。教会放火殺人事件に焦りを深める捜査本部』
(あの事件だ―!)
 そう判断したと同時に、ジョーは凄まじい力で新聞を握りつぶしていた。

(まさか―!)
 見出しを見た途端、石原医師の全身に冷たいものが走った。なのにどうしても目をそらすことができず、いつもより丹念に文字を追ってしまう。硬く食いしばった歯が、口の奥でぎりぎりと不快な音を立てた。
(五年前、K県Y市で起きた教会放火殺人事件。容疑者として逮捕された少年A(当時十八歳)は護送中逃亡し、行方不明。そのまま暗礁に乗り上げた捜査はいまだにわずかな進展をもみせないまま、迷宮入りの様相を強めている―)
「違う!」
 握りしめた拳が机を叩く。
「違う違う違うッ!」
 赤くなった拳がぶるぶると震える。
「島村クンは犯人なんかじゃない…絶対に…!」
 00ナンバーたちと知り合い、親しくつき合うようになってからほぼ二年。その間、石原医師が自分から彼らの過去を探ろうとしたことはない。だが、こんな話は何となく―そう、何となく耳に入ってしまうものだ。かつて、藤蔭医師の家系についての噂を知るともなしに知ってしまったときのように。
 殺人事件の容疑をかけられて逃亡したジョーがBGに拉致され、改造されたのはまだ十八歳のときだった。そのことを考えただけで、彼の運命の非情さに心を痛めていたというのに。
(どうしてわからないんだ! 彼と一度でも顔を合わせ、言葉を交わせば…そんな…人殺しなんかできるはずのない人間だってことは一目瞭然じゃないかっ!)
 再び拳を机に叩きつけたとき、ドアの向こうからいかにものんびりした声が聞こえてきた。
「兄貴? 松っちゃんが遊びに来たぜぇ。今日は非番だから、久しぶりに兄貴とダベりたいってよー」
 弟の俊之の声にかぶさって、松井警視の明るい声も聞こえる。
「おいヒデ! お前ンとこも今日は休診なんだろ? たまには一緒に遊ぼうぜー」
 屈託のない二つの声にびくりと身を震わせた石原医師が目の前の新聞をあたふたと片付けようとした瞬間―部屋のドアが開いた。

「ジョー? どうかしたの?」
 再びキッチンから顔を出したフランソワーズが、異常を察したのかかすかに眉をひそめる。
「あ…ううん、何でもないんだ。何でも…ない」
 新聞を握りしめた手をさりげなくテーブルの下に隠し、精一杯平静を装ってジョーは振り向いた。
「そう? ならいいけど…。…あのね、ジョー。悪いんだけど、食事が終ったら、そのお皿洗っておいてもらえないかしら。私、これからちょっとギルモア博士のお使いで石原先生のところに行かなくちゃいけないのよ」
「お使い?」
「ええ。この間ご本を一冊借りたんですって。本当は博士がご自分で返しにいらっしゃりたかったらしいんだけど、ちょっと今、研究の手が離せないみたいで…あんまり長い間借りたままにしておくのも申し訳ないから、って頼まれちゃったの。ごめんなさいね」
「だ…だったらそのお使い、僕が行くよっ!」
 ジョーの叫びに、エプロンを外そうとしていたフランソワーズの手がぴくりと止まる。
「え…だってジョー、それこそ悪いわ。私が頼まれたことなのに…」
「いいんだよ。それに、今君が出て行っちゃったら博士の朝食が用意できないじゃないか。僕なら、全然構わないから。…僕が…行くからっ!」
「博士の朝ごはんなら、もうキッチンに用意して…ちょっと、ジョー!?」
 だがそのときにはもう、ジョーは席を蹴って立ち上がっていた。
 加速装置を抜きにしても、彼の行動は素早い。あっという間に二階に駆け上がり、ジャケットや車のキーなどを取ってきたかと思うと、キッチンテーブルに置いてあった本と心ばかりのお礼の菓子折を引っつかみ、まるで逃げるように玄関へと走る。
「え…貴方、車で行くの? あのあたりは駐車場が少なくて、停めるのに一苦労だって言ってたじゃない。やだ、こんな季節にサングラスまで…それに、新聞―!?」
 フランソワーズの抗議はばたんと勢いよく閉まったドアに拒絶された。
「ジョー…」
 呆然と廊下に立ちすくんだままのフランソワーズの手から、エプロンがはらりと床に落ちた。

(畜生っ!)
 怒りとも哀しみともつかぬ衝動に、ジョーは思い切りアクセルを踏み込んだ。
 五年前のあの事件。あれが、全ての始まりだったのだ。優しかった神父、光に向かって歩いていくはずだった彼自身の未来。手の中の、ほんのわずかな幸福を全て奪い取り、その後の運命さえも大きくねじ曲げる原因となった、忌まわしい―悪夢のような夜。
 ―真相は、暴いた。そして、神父の仇も討った。だが、それを公にすることはできなくて―BGの存在、そして自分がサイボーグであることなど、誰にも…話せるはずなんかなくて。
 でも、仲間たちが真実を知っていてくれればそれでいいと思っていたのに。誰にも知られず、このままひっそりと―日本の片隅で、静かに暮らしていければそれでいいと―。
 だが、今日の記事にあらためて思い知らされた。世の中はまだ、あの事件を忘れていない。世間の人々にとって、自分は今も殺人事件の容疑者、いや、犯人…人殺しなのだ。
 唇をかんで助手席に目をやれば、フランソワーズから奪い取ってきた本と菓子折、その上に放り捨てられた、くしゃくしゃの―新聞。
 これを張々湖やグレートに、ギルモア博士に、そしてフランソワーズに見られるなど、耐え難かった。もちろん、仲間たちは皆真実を知っているけれど、だからこそ―だからこそ、こんな記事を読んだら自分以上に悲しみ、心を痛めるに違いない。大切な人たちにそんな思いをさせかねない自分の存在が、どうしようもないほど疎ましくて、いたたまれなくなって。石原医院への用事を天の助けとばかりに家からも逃げ出し、こうして今、たった一人車を走らせている。
 石原医院へ行くのに車を使ったことなど一度もない。だが、あの記事を読んだあとで電車に乗るなど、できるはずがなかった。あの新聞は全国紙だから、当然日本中の人間に読まれているはず。もちろん、事件当時未成年だったジョーの写真など載っているわけもないが、今はネットというものがある。彼に関する情報が、どこでどう広がっているかわからないのだ。電車…駅…そして、街中のいつどこで、誰に「こいつが人殺しだ!」と指をさされるかわからない恐怖。自分だけしかいない車の中でさえ、サングラスをかけずにはいられないほどの。
 濃いグレーのガラスを通して見る世界は妙に暗くて、冷たくて、得体が―知れなくて。彼を陥れようとする悪意だけがうごめく魔界のように思えた。
 比較的石原医院に近いところで見つけた無人駐車場に車を停め、ジョーは力ない足取りで下町の路地を歩いた。大通りは―怖い。人間が―恐ろしい。
 やがてたどり着いた小さな医院。仲間たちと同じ、いや時にはそれ以上の優しさと温かさでいつでも自分を包み込んでくれる大切な―友達の家。だけど、もし石原医師があの記事を読んでいたら?
 今すぐにでも会いたいのに、会う勇気が出ない。心をかきむしる葛藤がインターフォンを押す指を躊躇わせる。だが、もう片方の手の中にある本と菓子折の、ずっしりとした重みがジョーを現実に引き戻し、震える指が思い切ったように目の前のボタンを押した。

「何、やってんだ…?」
「兄貴…?」
 松井警視と俊之が、ドアに手をかけたまま固まった。部屋で調べ物をしているとばかり思っていた相手が机の上に上半身をがばりとかぶせ、まるで抱きしめるかのようにしがみついているのを見れば、それも無理はなかろう。あんぐりと口を開けたまま二の句が継げない友達と弟に、石原医師はこわばった笑みを浮かべ、必死の弁明を試みる。
「あ…いや、ちょっと今、机の裏にカルテ落としちゃってさー。拾えないから、机、ずらそうかなー、なんて…」
「バカかお前は。カルテなんざ、机の下から手ェのばせばすぐ取れるだろうによ」
「第一、一人でそんなモン動かして、ぎっくり腰にでもなったらどうすんだよ。うちには、整形外科なんてねぇぞ」
 口々に言いながら、ずかずかと部屋に入ってくる二人。松井警視は言うに及ばず、中学から大学まで柔道選手として活躍していた俊之も、背丈だけは自分と同じ程度なものの、横幅はゆうに二割り増しの体格である。言い知れぬ圧迫感。石原医師の額に油汗が流れる。
「あーっ! ちょっとストップ! 二人とも動くなっ!」
「はぁ?」
 言われるままに、「だるまさんが転んだ」よろしく立ち止まる二人。意外と、素直である。
「そこ、危ないっ! 今、落としたんだ、注射針っ! 脊椎注射用の、すっげぇぶっといやつっ」
「今って…カルテ見てたんだろ、お前」
「そうだよ。それに注射針なんかうかうか診察室から持ち出したりして、備品管理不行届きで立ち入り検査なんざされたらヤバすぎだぜ、兄貴」
「なーんか、ヘンだな」
「松っちゃんもそう思う?」
 顔を見合わせ、小さくうなづき会った二人の足が再び一歩、前に出る。石原医師ののどが小さく痙攣し、「ひぇっ」とも「ぐえっ」とも聞こえるわけのわからない音を立てた。
 と、そのとき響いたインターフォンの音。俊之が、背後を振り返る。
「ありゃ、また客かよ。今日は親父もお袋もいねぇってのに…。悪い。松っちゃん、俺ちょっと見てくるわ。兄貴のシメあげ、頼む」
「おうさ。任しとけ」
 よりにもよって、絶対に残ってほしくない方が残りやがった…ついつい、神仏を呪ってしまう石原医師。だが、すでに松井警視は彼のすぐそばまで来ていて。
「ありゃ? 何がカルテだよ。お前ぇの体の下からのぞいてるの、新聞紙じゃねぇか。…さては、スポーツ紙のエッチ欄でも見てたな。おい、俺にも見せろっ!」
「ちっ、違うよっ! これは普通の新聞で…日本シリーズの結果がどうなったかなーって見てただけで…」
 しどろもどろになおも抵抗を試みる石原医師の肩に、松井警視が無造作に手をかける。
「日本シリーズなんざ、とうの昔に終ってんだよ! 第一、『巨人が優勝できなかったんならもうあんなのどうだっていい』って、ヤケ酒飲んで泣いてたのはどこのどいつでぇ。ほれ、さっさとどけ」
 あっけなく、机から放り出される石原医師。
「大体こりゃ、スポーツ欄じゃなくて社会欄じゃねぇか。…ん? この記事は…」
「駄目だ、見るなぁっ!!」
 松井警視を押しのけた石原医師が、再び新聞の上に覆いかぶさる。
「あっ、何しやがるこの野郎っ!」
 こうなったら、もうあとはお約束の取っ組み合い。組んずほぐれつ、どたばたと大騒ぎになったところで再び、部屋のドアが開いた。
「げ…」
 戻ってきた俊之が、またしてもドアの傍らで棒立ちになる。
「今度は一体何が始まったんだ? 俺…今一瞬、チンパンジーとヒグマのホモレイプの幻を見たぞ…」
 覆いかぶさった途端にひっくり返されて、仰向けになってもなお新聞紙を隠そうとして机の上に背中を押しつけている石原医師の両手首を松井警視がつかみ、そのまま放り出そうとのしかかったところを目撃されては、何を言われても仕方あるまい。だが…
「俊之! お前、何考えてんだよっ」
「そうだっ! おいトシ、手前ぇにゃ年長者に対するソンケーの念ってモンがねぇのか、コラ!」
 だが、俊之は小さく肩をすくめただけだった。
「いい年こいてガキみてえな真似ばっかしてる三十男二人を尊敬しろっつー方が無理なんだよ。お客さんがすっかりビビっちまってるじゃんか。…すみません。でもこの二人、これが普通なんです。ま、精神年齢が小学校入学時から一歩も成長してないただのバカだと思えばそれほど腹も立ちませんから」
 振り向いて頭を下げつつ、ひょいと脇にのいた俊之の後ろで、どこか怯えたようにおどおどと立っていた少年。
「島村クン!!」
 石原医師が、さながら悲鳴そのものの叫び声をあげた。

 


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