天使の罠 3


 「たこ八」は、中々感じのいい店だった。川沿いの飲み屋街の外れ近く、小さく古ぼけた雑居ビルの一階が一般席、二階が宴会場。一階だけでも五十人くらいは入れるだろうと思われる店内は、良くも悪くも町の居酒屋、センスなんぞはカケラもないが、立ち込める焼き鳥の匂い、適度に煤けた天井や壁、角のすり減った木製のカウンターやテーブルを囲む丸椅子などが、いかにも親しみやすい、庶民的な雰囲気をかもし出している。壁に貼られた「お品書き」の短冊の文字が少々ヘタクソであるのも微笑ましく、店中をきびきびと走り回る店員たちの挨拶や接客態度も気持ちがいい。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
 一歩店に入るやいなや、威勢のいいはっきりとした声が飛んだ。まだ二十歳前後の店員が一人、走り寄ってきてみんなに一礼する。
「あの…九人なんですけど」
「かしこまりました! えっと、お座敷の方も空いておりますが、どうしますか? それとも、外国の方も多いようですし椅子席の方がいいでしょうか」
「それじゃ、座敷の方へ」
「はいっ! 九名様、お座敷へごあんなーいっ」
「喜んでぇっ! こちらへどうぞ!」
 案内されたのは座敷とは名ばかり、床より一段高くなった一角に畳が敷いてあるだけの場所だった。だが、一応隣の席との間には間仕切りのついたて(らしきもの)が置いてあるし、カウンターや一般のテーブル席よりは調理場やレジからも離れている。少なくともここが、この店の中で一番店員たちの目が届きにくいところであることは間違いない。
「はぁ、やれやれ…とにかく、ここからが作戦開始だな」
 欧米人には少々狭い空間に無理矢理身体を押し込めながら、グレートがつぶやく。その表情は真剣だが、目だけが期待に爛々と輝いているように思えるのは気の所為だろうか。
「あの若い兄ちゃんたち、よく働くアルネェ…挨拶や言葉遣いもきちんとはっきりしていて、見ていて惚れ惚れするアル。二、三人、うちの店でも働いてくれないやろか」
 席についた途端運ばれてきたおしぼりで手や顔を拭きながらそう言った張々湖は、すでにしっかり日本のオヤジと化している。
「おいお前ら! のんびりしている場合じゃないだろう! 当初の目的を忘れるな」
 すかさずアルベルトの苦言が飛んだが、それも仕方あるまい。訪れた客全てをくつろがせ、まるで自分の家に帰ってきたような気分にさせる店なのだ、ここは。
「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりでしょうか?」
 ぱっと飛んできた兄ちゃんの一人が声を張り上げる。たまたま一番上がり口に近い場所に陣取ったアルベルトが、とりあえず応対にまわった。
「ふむ…そうだな」
 考えるふりをして、店内をぐるりと見回す。と、彼の座った場所のほぼ真正面に当たる壁に、でかでかと貼り付けられたポスターが目に入った。「お品書き」同様、ちょっとヘタクソな字でそこに書かれていたのは。
「スーパーチャレンジ! 一回のご来店につき日本酒三升召し上がった貴方に送る豪華商品! 詳細は店員にお尋ね下さい」
 アルベルトの口の端が、かすかにつり上がった。
「あれに、挑戦させてもらおうか」
 親指を立て、ポスターを指し示すと兄ちゃんの目が大きく見開かれた。
「え…? お客様、あちらに挑戦なさるおつもりですか…?」
「ああ。俺たちは、あれに『参加するために来た』んだ」
「は…ちょっと、お待ち下さいっ」
 弾かれたように、兄ちゃんが調理場の方に駆けて行く。仲間たちの方に向き直ったアルベルトに、全員がかすかにうなづいてみせた。
 程なく、店長らしいやや年かさの男が先ほどの兄ちゃんとともにやってくる。
「お客様、当店のスーパーチャレンジに参加なさるんですか?」
 一礼してそう言った店長に、アルベルトは大きくうなづいた。
「ああ。俺たちはみんな、あの豪華商品を楽しみにしてきたんだ。こっちの赤ん坊は除いた八人全員参加で頼む」
「かしこまりました。ただ、お連れ様の中には女の方もいらっしゃるようですし、ちょっとこちらの銘柄を味見してみていただけますか。その間に、チャレンジのルールをご説明致します」
 店長が顎をしゃくうと、背後の兄ちゃんが手にしたお盆に並べられた八つのお猪口をメンバーたちそれぞれの前に配る。そこには、八分目ほどの透き通った酒が注がれていた。
「挑戦していただく銘柄は全てこの『春麗(はるうらら)大吟醸』とさせていただいております。冷や、熱燗はお好み通り。ただし、お客様のお加減が悪くなったと当方が判断致しましたら即刻、その場で挑戦は終了。なお、そのとき脈を計ったりするのに店員がお体に触れることもございますが、よろしいでしょうか」
 最後の言葉は、どうやらフランソワーズに向けられたものであるらしい。もちろん彼女は、鷹揚にうなづく。
「チャレンジ成功の場合には、本日の分を含め、当店での飲食一年分が無料になるほか、豪華景品をご用意致しております。しかし失敗された場合には召し上がった酒及びつまみの代金は丸々お支払いいただくということに…ただし、このお味見分は当店からのサービスでございますので成功・失敗に関わらず代金はいただきません」
「結構だ」
 目の前の猪口をぐいと一息で飲み干し、アルベルトがうなづいた。店長もまた、うなづき返す。

 かくして、00ナンバーたちの「日本酒三升スーパーチャレンジ」の幕は切って落とされたのであった―

「お待たせ致しました!」
 元気な声とともに、メンバーそれぞれの前にまるで牛乳一リットルパックほどの大徳利と、湯呑み茶碗並のどでかいぐい呑みが置かれた。
「こちらの五合徳利を六本空にしていただければ、チャレンジ成功となります。なお、くどいようですがお加減が悪くなった場合、あるいは何か不正が認められた場合には当方の判断で強制終了になりますので…」
「ズルなんかするわけねぇじゃんか! こんなうまい酒、てめぇで呑まなきゃ勿体ないぜ」
 早速自分のぐい呑みになみなみと酒を注ぎ、一息で飲み干したのはもちろんジェット。常日頃のポリシー通り、今回の一戦も先手必勝、迅速果敢に勝負をつけるつもりらしい(だが、あまりハイペースで行くと腰にくるぞ、日本酒は…)。
「うわぁ、くせがなくてすごく飲みやすいのね、これ…まるで、フルーティな香りのワインを飲んでいる感じだわ」
 幸せそうな微笑を浮かべたフランソワーズはそっと一口含み、香りと味わいを楽しみながらゆっくりと舌の上で転がしている(…でもねお嬢さん、その飲みやすさが曲者なんですよ、吟醸酒は)。
「日本酒ちゅうのはみんな甘ったるくて口の中に残っちまうように思てたアルけど、これはさっぱりしてて美味しいアルね。うちの店にも置きたいくらいやけど、仕入れ値どれくらいなんやろか」
「おいおい大人、こんなときくらい商売のことは忘れろよ。せっかくの酒がまずくなっちまうぜ。…ふむ。確かに飲み口は爽やかだな。だが、我輩の好みからいうともう少々強烈で、腹の中を炎が駆け下りていくくらいの方が嬉しいが…」
 眉間に皺を寄せながら何やらぶつぶつ言い始めた張々湖のぐい呑みに酒を注ぐグレートの言葉はさすが、酒豪の名に恥じないものであった(でもいいのかよ。三升だぞ、三升! それに大人、中華にはやっぱり紹興酒なんじゃないのー?)。
「ムウ…悪くはないな。…美味い」
 最初の一杯を口にしたときそうつぶやいたのみで、あとは黙々と飲み続けているジェロニモ。彼の手の中では、さしもの巨大ぐい呑みもごく普通の大きさの杯に見える(案外、彼ならこのチャレンジにも成功するかもしれない)。
「確かに美味しいね。これならみんな、かなり飲めるんじゃないかなぁ」
 微笑んだジョーのピッチもかなり早い。意外と彼も、飲みだすとがんがん飛ばしていく方だったりする(それでいつも自爆するんだよな、未成年! ふ…まだまだ青いぜ)。
 あまりの盛り上がりに作者さえもついつい余計なツッコミを入れてしまう中、アルベルトとその向かい側に座ったピュンマだけは慎重に、ゆっくりと杯を重ねていく。
(…おいイワン。どうだ? 店員の中に怪しい奴は見つかったか?)
 さり気ない脳波通信に、フランソワーズの脇に置かれたクーファンの中で眠ったふりをしているイワンのテレパシーが返ってくる。
(店員ハミンナ、何モ知ラナイミタイダヨ。何カ知ッテルトスレバ、アノ店長ダネ。…サッキカラドウモ、閉店後ノコトバカリ気ニシテル。タダ、彼ノ頭ノ中ニモ麻薬ニ関スル具体的ナ思考ハ感ジラレナイ。彼モマタ、単ナル「駒」ニ過ギナイノカ…ソレトモカナリノ狸ナノカ、今ノトコロハボクニモ判断ガツカナイ)
「…狸は、コズミの爺さんだけでたくさんだ」
 ついそう口に出してしまったアルベルトを、ピュンマが怪訝そうに見つめる。
「…イワン、何だって?」
「まだ判断がつかんとさ」
「イワンのテレパシーでも駄目なのか…フランソワーズの方はどうなのかな」
 首をかしげながら、今度はピュンマがフランソワーズに脳波通信を送る。
(フランソワーズ? 店内に何か、怪しい物は見つかった?)
 が、その返事は。
(残念でした〜! 何にも、ないわよぉ〜。ものの見事に、きれいさっぱり、な〜んにも、なぁ〜いっ! きゃはははははっ!!)
 ピュンマは慌ててこめかみを押さえた。いつものフランソワーズなら絶対にあんな応答はしない。特に最後の高笑いは…一瞬、マジで脳波通信機がショートするかと思ったぞ…。
「アルベルト、まずいよ…フランソワーズ、もうかなり…」
「言うな。…わかってる」
 見ればアルベルトも同様に頭を押さえ、顔をしかめている。どうやら脳波通信機を破壊されそうになったのはピュンマだけではないらしい。
 そう、二人が難しい顔をしてひそひそとささやきあっている間に、他の仲間たちはもうかなりでき上がっていたのだった。
 大徳利を一本空けるごとに、それぞれの前には数字を書いたおもちゃの小旗がおかれていく。視線だけでとりあえずチェックを入れてみれば、今のところのトップはグレートとジェットの三本、それ以外の連中は大体二本ずつというところか。フランソワーズの前にさえ、黒々と「壱」と書かれた旗が一本置かれてある。いまだに旗がないのはアルベルトとピュンマの二人だけ。…と、いうことは。
(冗談じゃないよ…みんな揃って最低五合、いや一升…ジェットとグレートにいたってはもう一升五合空けてるわけか―?)
 さすがの00ナンバーたちといえども、一升酒かっくらっての作戦行動は生まれて初めてである。いくら普通人相手とはいえ、こんな調子で大丈夫なんだろうか…。
 ピュンマの背中に冷たいものが走ったと同時に、隣に座っていたグレートがピュンマの大徳利を取り上げた。
「何だ〜、ピュンマ。お前、全然飲んでないじゃないかぁ。こんなところでまで真面目くさってどうする。いいか、日本では『酒は憂いの玉箒』、あるいは『百薬の長』とも言われていてな〜…郷に入っては郷に従えだ。さぁ、何もかも忘れて飲んだ、飲んだ!」
(何もかも忘れちゃったら捜査はどうするんだよっ! それに、日本には『酒は静かに飲むべかりけり』って諺もあるだろうっ)
 心の中で叫んだところで、何の助けにもなるわけがない。ちなみに「酒は静かに…」は諺ではなく若山牧水の短歌だったりするのだが、今のピュンマにそこまで要求するのは酷というものだろう。
「どうした、ピュンマ! 我輩の酒が飲めんと言うのか!」
 半ば叱り飛ばされながら、仕方なく湯呑み、いやぐい呑みの酒を空ける。と、そこにまたこぽこぽと音を立てて注がれる春麗、大吟醸。
「おお、それでこそ若人! いい飲みっぷりだな、さあもう一杯!」
 あとからあとから注がれる酒を、必死になって片づけるピュンマ。アルベルトが、こっそり脳波通信を送る。
(おい…大丈夫か? なんだったら席、換わってやるぞ)
(う…ん…。だいじょーぶ、だいじょーぶ…それに、全員が潰れちゃったらもー、どーしよーもないよー…だからアルベルトだけでも…僕に何かあったら、あとは頼むねー)
「おい、ピュンマ!」
「あー?」
 名前を呼ばれて再びこちらに顔を向けたピュンマの目は、すでに非の打ちどころがないまでに―据わっていた。その漆黒の肌を通してさえ、目の縁から頬のあたりがほんのりと赤く色づいているのがありありとわかる。
(ドウヤラ僕タチ、完全ニ孤立無援ニナッチャッタミタイダネ)
 タイミングよく(それとも嫌がらせか?)頭の中に響いたイワンのテレパシー、ダメ押しの一言。
 ひゅるるるるる―。室内にもかかわらず、自分の身体を乾いた冷たい風が吹き過ぎていく音を、アルベルトは確かに聞いたと思った。

 その後も順調に進んでいくチャレンジ、収拾がつかなくなる一方の宴会。
「オラ、兄ちゃん! 四本目空いたぞぉっ! 次持ってこい、次っ!」
「こっちもだ! いざ、新たなる敵に挑まん! 我輩の心は熱く燃えているぞぉぉぉっ!」
 ジェットとグレートのだみ声が店中にこだまする。その隣で小皿を叩きながら張々湖が歌いだしたのは「ちゃんちきおけさ」ならぬ「夜来香」。意外と上手なその歌声に、店のあちこちから拍手が巻き起こる。それに気をよくしたのか歌い終わると同時にふらふらと立ち上がり、店内に向かって一礼した張々湖がフランソワーズに目配せ。うなづいたその白い手がクーファンの中からイワンを抱き上げ、張々湖に渡す。きょとんとしている赤子をしっかりと抱いて、次の歌は「子連れ狼」(注・旧作)のテーマ。こうなるともう、居酒屋に来てるんだかカラオケボックスに来てるんだかわけがわからない。
 そんな亜空間の傍らで、しんみりと語り合っているのはジョーとフランソワーズ。だが、よく見るとしゃべっているのはもっぱらフランソワーズばかりで、ジョーの方は早々とこっくりこっくり、舟をこいでいたりする。ちなみに彼の前にはつい先ほど、三本目の旗が立てられたばかりであった…。
「ん、もう! ジョーっ! 貴方って、どうしていつもそうなのよぉぉぉっ! あたしが大事な話をしてるとすぐにそうして逃げてばっかりで…他の子にはあんなに優しいくせに…ねえ! 貴方にとってのあたしって、一体何なのぉぉぉぉぉっ!!」
 フランソワーズの絶叫に、援護射撃として参戦したのはピュンマ。
「そーだっそーだっ! おいジョーっ! お前、彼女のことどう思ってんらよぉっ! 今日という今日は、僕だって、真剣らぞおおおっ!」
 二人分の絶叫にさらされながら、それでも目覚める気配のない栗色の髪の少年を、果たして立派と言えばいいのか鈍感と言えばいいのか。
 ここまでみんなが壊れた中、相変わらず無言のまま杯を空け続けるジェロニモ。が、突然その巨体はゆっくりと崩れ落ち、畳の床をかすかに振動させたそのあとに聞こえるのは大音量のいびきのみ。
(…だめだこりゃ)
 計らずして「○リフ大爆笑」お約束の「もしものコーナー」における長さんの思いを骨身にしみて味わう羽目になったアルベルトの前に、「弐」と書かれた旗とともに、三本目の大徳利が静かに置かれたのであった。

 


前ページへ   次ページへ   二次創作1に戻る   玉櫛笥に戻る