傷痕 3
そして。
今、フランソワーズは戦場に立つ。神々しいまでに美しく、そのくせ行く手を阻む何ものの手をも寄せつけない、研ぎ澄まされた刃物にも似た無敵の戦士、そのものの姿で。
その斜め後ろに立ったジョーはというと、なんだかひどく疲れ果てたような、情けない表情ですがるように彼女の後姿を見つめるばかりである。この場では、彼の出番はない。いや、むしろただの足手まといでしかなかろう。
それもそのはず、戦場は戦場でも、ここは女の戦場―S武デパート七階、夏物特設バーゲン会場であった。
昨夜―フランソワーズはずっと考えていた。
(私がこの傷を隠していた、本当の理由は何だろう?)
ジェットに余計な気を遣わせないため。ジョーに哀しい思いをさせたくないため。…それは多分、どちらも真実。だけど、理由の全てではないということに、昼間のジェットやアルベルトとのやり取りの中で、気づいて―しまったから。
(二人への思いを隠れ蓑に、自分でも気づかなかった―いや、気づかないふりをしていたもう一つの―そして多分、一番大きな理由)
腕を上げ、やや外側に捻るようにしてしげしげと傷痕を見つめる。…考えてみれば、あれ以来こうやってじっくりとこれを眺めたことがあっただろうか?
この傷の持つ意味を思い出し、現在の―そしてこれからの自分の行動を律するための指針として役立てたことがあっただろうか?
答えは…否。フランソワーズは、小さくため息をつく。
確かにあれ以来、彼女は前にも増して用心深くなった。決して無茶をしないよう常に自分に言い聞かせ、作戦行動の秩序を乱すことを厳しく自分に禁じ、戦闘中はあらゆる感情を殺して「生きたレーダー」としての役割に徹し続けた。
だがそれは「自戒」の結果などではなく―ただ単に、せっかく芽生えた戦士としての自信を喪失し、あの過ちを繰り返すことを、自分の所為で他の仲間たちが傷つくことを必要以上に恐れ、怯えていただけ。
(考えてみれば、私は…この傷と真っ向から向かい合うことすらも避けていた―)
それは、あのとき002の右腕が失われていたことに気づいた瞬間の衝撃を思い出すのが怖かったから。
あれから長い間自分で自分を責め続け、人知れずすすり泣いていた頃の記憶と自己嫌悪を思い出すのが辛かったから。
(戦闘には不向きだと―戦場に出ても、何もできないと自分で自分に言い聞かせ、いつも仲間たちの強固な庇護の下、安全な場所―私の所為でみんなが危険にさらされないような場所で、いつも怯えて、怖がってばかりいた―私)
だとしたら、それはただのトラウマでしかない。自らを戒め、欠点を克服してさらなる高みを目指す「自戒」本来の意味とは似ても似つかない精神の萎縮、自己との戦いの放棄。
…そう、結局この傷は―フランソワーズの自信を打ち砕き、その行動を恐怖と後悔でがんじがらめに縛りつける役にしか立たなかったのだ。
そればかりか、いつしかこの傷を隠すようになって―人の目からではない、自分自身の目から。ジェットやジョーのためではなく、自分自身のために。
それに気づいたとき、フランソワーズは一人声を上げて笑い、そして―泣いた。こんな簡単なことに気づかなかった愚かな自分がおかしくて、哀しすぎて―。
それでも、笑いはいつしか消え去り、涙もやがて乾く。フランソワーズは大きく深呼吸をして―再び、腕の傷痕を見つめた。
あんなにも痛々しく、鮮やかだったその傷は、いつのまにかすっかり薄くなっている。そして、あの日からずっと引きずってきた自己嫌悪からも後悔からも開放されるべき時の訪れを静かに告げているように思えた。
だとすれば。
もう、気にするのはやめよう。…自由になるのだ。戦士としても、いやそれ以前に、一人の人間、一人の女としても。
(そんなら今度、目一杯きわどいキャミソールの一つも着てみろよ。そうすりゃ俺たちも眼の保養ができるってもんだ)
あのときジェットに返せなかった言葉を、夜のしじまの中、フランソワーズはひっそりとつぶやく。
「いいわ。着てみようじゃないの。キャミソールでもタンクトップでも、何でもこいだわ」
空色の瞳が、挑戦的な色を帯びてきらりと光った。
で。翌日早速新しい服を買いにデパートにやってきたものの。
常に季節を先取りし、新しいものをあとからあとから供給し続ける流通業界のこととて、夏の盛りだというのに通常のフロアはすでに秋物一色に彩られていた。一度はがっくりと肩を落としたフランソワーズだったが、ふと目を上げればすぐそこの壁面に、「夏物大バーゲンセール」のポスターが。その瞬間、たおやかな少女は屈強な女戦士へと変わり、まっしぐらに会場へと走る。そして、何のためらいもなく戦場へとその身を投じたのであった。
ただ、そうなると気の毒なのは付き添ってきたジョーである。フランソワーズの買い物につき合う以上、運転手と荷物持ちにこき使われるのは承知の上だったし、今日に限って出がけにアルベルトとジェットから「悪いが今日だけはフランソワーズの気がすむまでとことんつき合ってやってくれ」と頭を下げられたこともあって、こちらも相当の覚悟は決めてきたはずなのだが―
まさか、延べ五軒のデパートを引きずり回される羽目になるとは。
三軒目あたりから少々ぐらつきかけてきた決意を懸命に奮い立たせ、フランソワーズのためならと歯を食いしばってお供に徹してきたというのに、四軒目をまわったそのときまで彼女は何一つ買うことなく、最後に申し訳なさそうに―そのくせ妙にきっぱりとした口調でこうのたもうたのだった。
「ごめんなさい、ジョー…。やっぱり、最初のデパートの品揃えが一番豊富で、センスもよかったわ。…悪いけど、もう一度あそこへ…連れて行ってくれる?」
正直、こんな目に遭うくらいなら炎と硝煙たなびく「本物の」戦場の方がどれだけマシか知れなかった。だが、多少強張ってはいたものの穏やかな笑みを浮かべ、「うん、いいよ」と素直にうなづいてしまったのはやはり、惚れた弱みである。
ただ、文字通り「最後の戦い」に出向いていく前の彼女が「少しじっくり見ていきたいから、時間がかかっちゃうと思うの…だからその間、よかったら別行動にしない?」と言ってくれたのだけは涙が出るほどありがたかったが。
空白は約一時間。
あらかじめ待ち合わせ場所に決めておいた駐車場、ジョーの車に戻ってきたフランソワーズは両手にあふれんばかりの「戦利品」を抱え、満面の笑みをたたえていた。
「今日は本当にありがとう、ジョー。おかげで私、自信を持ってこの夏を乗り切れそうな気がするわ」
輝くばかりのその表情、そして弾んだ声は、ジョーの疲れを吹き飛ばすには充分すぎた。
「気にすることないよ、フランソワーズ。また買い物に行きたくなったらいつでもつき合うから、遠慮なく言ってくれていいんだよ」
嬉しげに応えたジョーはエンジンをスタートさせ、車を発進させる前にふと胸ポケットに手をやり、そこに入っていた包みごと軽く握りしめて、かすかな笑みを浮かべた。
「アイヤー、フランソワーズ、ジョー! 意外と早く帰ってきたんアルね。で、どうだったか? 素敵な洋服、見つかったかネ?」
二人がギルモア邸に帰りついたのはすでに夕方。一歩玄関に入ってみれば家中に美味しそうな匂いがたちこめ、額に汗の粒を浮かべた張大人が、キッチンからひょいと顔を出して歓声とともに出迎えてくれた。
「やだ、大人…。もしかして、お夕食の仕度、やってくれてたの? ごめんなさい! 私…すぐに手伝うから!」
「大丈夫アルよ。今日は二人が買い物に出かけたって聞いてたからネ。夕飯は全部わてに任せるヨロシ。メニューは鳥手羽と青菜の煮込みにしたんアルけど、もう煮えるのを待つばかり、何もすることはないヨ。あと二十分ほどで出来上がるから、少し休んでるヨロシネ」
にこにことそう言ってくれた張大人の好意に、結局二人は甘えることにした。
部屋の前でジョーと別れ、自室で独りきりになったフランソワーズは早速本日の「戦利品」の包みを開け、ベッドの上に次々と広げ始める。あっという間に、ベッドは華やかな色彩で一杯になった。
「うーん、やっぱりこっちはちょっと派手過ぎたかしら。…でも、たまには私だってこういうのを着てみてもいいわよね。ただ、普段に着るとしたらこっちの方が無難なことは確かだわ」
つぶやきながらフランソワーズが取り上げたのはやや濃い目の青みがかったピンクのタンクトップと、アイボリーホワイトのカットソー。今日買ってきたのはどれもこれも夏向きの涼しげなトップばかりだったが、さすがにあまり肌を出しすぎるものは彼女の趣味には合わず、そのほとんどはごくオーソドックスなデザインのブラウスかTシャツばかりである。ただ、それでもちょっとだけ冒険をしてみたいという誘惑には勝てず、二着だけ―かなり大胆なデザインのものを買ってみたのだ。まず着てみたのはそのうちのピンクの方。派手すぎたかも、とは思うが、実はこれが今日買った中で一番のお気に入りだったりもする。
胸元に縫い付けられたいくつかのパールビーズを中心に周囲の布地がほんの少し縫い縮められてゆったりとしたドレープを作っているのがいかにも女らしいデザインだし、肩紐もやや細めなので涼しいこともこの上ない。フランソワーズは鏡の中の自分に至極満足した。だが、久しぶりにこうして腕を出してみるとやはり―この傷は、目立つ。
知らず知らずのうちに鏡の中の傷痕を見つめていた自分に気づき、フランソワーズは大きく首を振った。
(…ん、もう! 今さら何を気にすることがあるのよ。何もかも、昨日一晩できっぱり吹っ切ったはずでしょう。…違う? フランソワーズ)
と、そのとき。昨日と同じ、静かなノックの音が響いた。フランソワーズは一瞬ぎくりとしたが、すぐに意を決したようにドアへと向かう。
(…そうよ。私自身はもうこんな傷、何とも思っていないんだから)
自分に言い聞かせ、ドアの外へかけた、少しばかり明るすぎる声。
「誰? 張大人? もうご飯の時間?」
だが、返ってきたのは。
「フランソワーズ、僕だけど…ちょっといい?」
それはまぎれもない、今部屋の前で別れたばかりのジョーの声だった。
「へぇ…それ、今日買ったの? 素敵だね。すごく、似合ってる」
昨日のアルベルト同様ドアを細めに開け、部屋に入ってきたジョーはまず、そう言って眩しげにフランソワーズを見つめた。
「あ…ありがとう。今日はね、ほかにも気に入った服がたくさんあったのよ。貴方が私の我儘につき合ってくれたおかげだわ。本当に…どうもありがとう」
はしゃいで見せながらもフランソワーズの心にちくりと残る…罪悪感。
(それでも…やっぱりジョーへの嘘はつき通すしか…ないのよね。だって、本当のことを知ったら貴方…きっと哀しむもの…)
そんな思いを知ってか知らずか、ジョーは自分のシャツの胸ポケットから小さな包みを取り出し、そっとフランソワーズに差し出した。
「あの、これ…よかったら、使ってみてくれないかな」
「え…? 私に…プレゼント?」
きょとんとした水色の瞳の中、かすかに顔を赤らめた少年がこくりとうなづく。
「わぁ、嬉しい! 開けてみてもいい?」
誕生日でもクリスマスでもないのに、と不審な気もしたが、そこはそれ、憎からず思っている相手からのプレゼントを嬉しいと思わぬ女などいない。包装紙やリボンも無闇に傷つけないよう、細心の注意を払ってそっと開けてみたその包みの中身は。
「え…」
腕輪。それも、手首につけるブレスレットよりはやや大振りの―
「ジョー…これって…」
振り返ったフランソワーズの笑顔の中、空色の瞳だけが不安げに瞬く。
「うん。普通のブレスレットよりはもっと上の方につけるやつ。…あの…それなら君の…その、傷を―隠すことが、できるんじゃないかと思って」
「ジョー!」
反射的に叫んでしまったフランソワーズに弁解するかのように、ジョーはしどろもどろに話し続ける。
「最後に行ったデパートで君が買い物している間、僕は別行動だっただろ? あのとき、携帯で藤蔭先生に電話入れて訊いたんだ。…そういうタイプの腕輪…アームレットっていうんだってね…どこの売り場に行けば…買えるのか。そしたらね、デパートのアクセサリー売り場ではあまりその手のものは売ってないって…でも、あそこからすぐ近くに専門のアクセサリーブティックがあるって…教えて、もらって…」
手の中にあるそのアームレットは奇しくもフランソワーズが今着ているタンクトップの飾りとお揃いの、柔らかな白いパールビーズ。さまざまな大きさや形のビーズが織りなすやや目の細かい網目模様は、こんな傷など充分に隠してくれるだろう。だが―
「そうだったの…ありがとう。すごく素敵だわ、これ。…でも、もしかして気を遣わせちゃった? こんな、小さな頃の…何でもない…傷、に…」
ああ、どうしてこう、言葉がのどに引っかかるんだろう。どうしてもっとさり気なく、「ありがとう。気を遣わせて、ごめんなさい」と言えないんだろう。
手の中のアームレットをぎゅっと握りしめ、言葉を失ったフランソワーズにジョーがふと微笑みかける。静かで優しい、だけどほんの少し、哀しそうな―声。
「…もう、嘘はつかなくていいんだよ。もちろん、無理に本当のことを言う必要も―ないけれど」
「ジョー!」
フランソワーズの全身が小刻みに震えだす。まさか…まさかまさかまさか。
一瞬、真っ白になった頭の中、思いつくのはかつての嘘の文句ばかり。
「そんなこと、ない…これは本当に、昔兄さんと木登りして遊んでて…」
「木から落ちて、たまたまそこに転がっていた尖った石で、切った―確か君はそう言ったよね」
「ええ…そうよ。その通りよ。嘘なんかじゃない。本当の…こと…よ…」
だがジョーは痛ましげに目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「…違う。それはそんな、昔の傷じゃない。もっとずっと、新しい傷だ。多分、君がサイボーグにされて間もない頃、イワンやジェット、そしてアルベルトとたった四人きりで、生きるために必死に戦っていた頃の―」
「…どうして? どうして貴方、そんなこと言うの? どうして…私が嘘をついてるなんて…」
フランソワーズを見つめるジョーの瞳はあくまでも穏やかで、無限のいたわりと優しさに満ちていた。だが、その奥底に宿るのはまぎれもない悲哀。
(ああ…私は…私は貴方にそんな目をさせたくなかったのに―!)
「…BGが、生身の頃のアザや傷をそのままにしておいたっていうのは本当だと思う。君に限らず、僕ら全員、ね…」
そう言って、ジョーはゆっくりと自分の左足に手をのばし、ズボンの裾をまくり上げた。薄手でゆったりとしたブーツカットの裾は苦もなくたくし上げられ、引き締まった足首があらわになる。
「僕のこれもね、生身の頃の傷なんだよ」
見ればそこにはフランソワーズのそれよりもはるかに太く、ぎざぎざとした―だが、ずっと薄い―よく目を凝らさなければわからないくらいの、傷痕。
「中学の頃に、ワル仲間の先輩のバイクに乗せてもらったことがあってね。二人乗りしてたんだけど、その先輩がハンドル操作を誤って、バイクごと土手から転がり落ちたんだ。で、バイクから放り出されて地面に叩きつけられたとき、そこには運悪く、誰かが捨てた割れたガラス瓶の破片があって―」
その光景を想像したのか、びくりと身体を縮めたフランソワーズに、ジョーはいったん言葉を切り、ズボンを直した。
「あ…ごめん。とにかくこれは、ガラスの破片がかなり深く刺さってできた傷だから…多分、木から落ちてただ石で切っただけよりは重傷だったと思う。それも中学の頃なんて、学校にも行っていない小さな子供の頃に比べればつい最近だろう? なのに、僕の傷痕は君のそれよりもずっと薄くなってる。腕と足、女と男、肌の色、自然治癒力の個人差―そんなことを全部考えに入れてもちょっと、おかしくない?」
もはやフランソワーズに応える言葉はない。ただ、震えるばかり。
「生身の頃にできた傷なら、わざわざそんな嘘をつくはずないよね。でも、僕がみんなの仲間になって以降、君がそんなところに怪我をしたのを見た記憶はない。…それに昨日の、ジェットとアルベルトのこともあったし」
フランソワーズの目からは、いつしか大粒の涙がこぼれ落ちていた。ジョーがつと彼女に近づき、そっと手をのばして―その涙を、拭う。
「君が嘘をついたのは、僕を心配させまいとしたからだろう? 君は…とても優しいひとだから、ね…。でも、そんなこと気にする必要はないんだよ。話したくなければ、拒絶してくれればいい。話したくなったら、いつまでも僕は、君の言葉を聞き続けるよ。だから君は、もっと我儘になっていいんだ。僕のこと、そしてみんなのことを大事に思ってくれるのは嬉しいけれど、そのために君が自分自身にまで嘘をつくのを見るのはとっても…辛いから。僕だけじゃない。多分、アルベルトも、ジェットもみんな…」
そこまでが、フランソワーズの限界だった。気がつけばジョーの胸にすがりつき、大きな声を上げて泣いて、泣いて、泣いて…
「ごめんなさい。ごめん…なさ…い…ジョー…。嘘なんか…ついて…。私、莫迦だったの。何も、わからない…子供だったの…。でも…もう、迷わないから…ちゃんと…貴方たちの仲間として…ちゃんとやって…いけるはずだから…だから、許して…私を…どこまでも、一緒に…連れて行って…」
ジョーの手が、自分の髪を静かになでていることがわかる。ああ、どうして…どうしてたったこれだけのことで、私は…こんなにも安心できるんだろう。今までの…全てを吹っ切ったと思った後にさえついてきていたわだかまりが、ためらいが…どうしてこんなに跡形もなく…何もかもきれいに洗い流されていくんだろう…。
「フランソワーズは莫迦なんかじゃないよ。それに、子供でもない。僕たちの大事な、頼りがいのある仲間…ううん、僕にとっては、それだけじゃなくて…」
ジョーがそこまで言ったとき、階下から夕食を告げる張々湖の声がかすかに聞こえてきた。