Part 4
藤蔭助手の叫びよりも早く、例の祠のあたりの土が凄まじい勢いで盛り上がり、得体の知れない黒い闇が湧き出してきたような気がした。もちろん実際に見えたわけではないが、ちりちりと全身の肌を総毛立たせ、かすかな痛みにも似た不快感を伝えてくるその禍々しい気配、底知れぬ悪意と怒りの存在だけははっきりと感じ取れる。
だが、秀之が感じたそれはあくまでも「おこぼれ」、ただその場に居合わせたがためのとばっちりにしか過ぎなかった。地中から湧き出した「闇」の標的はあくまでも藤蔭助手、そして二人の女子高生。
最初の攻撃は、狙い違わず藤蔭助手を襲った。闇が、錐のように鋭い刃となってまっしぐらにその胸元に突進する。
「おっとぉ、そうはさせるかっ」
間一髪のところで、薄蒼い光が闇の切っ先を粉砕した。見れば、両手を一杯に突き出したてこなが、互いの手首をわずかに重ね合わせながら闇を睨みつけている。その瞳は逸る心を抑えきれないかのように、きらきらと輝いていた。悔しげな唸りが波動となって大地を震わし、激昂した闇は、今度はてこなに矛先を向けた。
「行かせないよ! ほうらっ!」
次の声は、せいる。藤蔭助手やてこなとは違って右手だけを伸ばした彼女の指先が何やら図形らしきものを宙に描いたと同時に闇は弾き飛ばされ、遥かな上空にわだかまって一瞬、静止した。
「今度は、こっちから行くよっ」
威勢のいい台詞とともに、再び蒼い光が飛ぶ。どうやらそれは、てこなが重ね合わせた手首をかすかに捻るたびに生まれてくるようだ。その直撃を喰らい、一層敵意を燃やしたらしい闇の攻撃は、何故だか一向に効をなさない。…どうやら、せいるがその細い指先を少しでも動かすと、闇はあっという間に跳ね飛ばされてしまうらしい。
そんな―闇と制服姿の少女たちの闘いを見つめながら、藤蔭助手はただじっと、腕を組んだままその場を動かない。口もとに浮かぶかすかな笑みは、少女たちへの信頼の表れか。真っ白な白衣だけが妙に鮮やかに浮かび上がり、その姿はさながら戦さに臨んだ白い魔女そのものに思えた。
今や秀之は、わなわなと震えながらただじっとその不可思議な闘いを見つめているだけであった。藤蔭助手が白い魔女なら、あの二人は悪戯好きの使い魔だ。昼の光の中ならば可愛らしいに違いない紺の制服が夜に溶け、その印象を一層深くさせる。一方の闇は完全に荒れ狂い、ごくかすかにではあるが、暗赤色に発光さえしていた。痛いほど目を見開いてみてもほとんどわからないような光なのに、それが妙に恐ろしい。気の所為か、その輪郭もゆっくりと規則正しい収縮を繰り返し始めたような気がする。それはあたかも、怒りの血を全身にたぎらせて荒い呼吸をしている不気味な巨大生物を連想させて、おぞましいことこの上ない。しかし、そんな化け物相手に少女たちは怯む気配すら見せず、果敢に立ち向かっていく。
戦いは、互角だった。広がったり縮んだり、自在に形を変えて襲いかかる闇をてこなの蒼い光が迎え撃ち、そんなてこなをせいるが守る。ぴったりと息の合った見事なコンビネーションながら、二人の攻撃ではどうしても、闇に致命傷を与えることができないようであった。
「あーん、こんなこといつまでやってたって、埒が明かないよぉ」
「あたしもう飽きちゃった。…せいる、頼むわ」
うんざりしたような少女たちのぼやきが聞こえてきたかと思うや、何とてこながだらりと両手を下げ、全くの無防備状態でふらりと闇の真ん前に進み出た。思いがけない獲物の出現に、たちまち闇がその全身を覆い、さながら絞め殺そうとでもするかのようにぐうっと縮む。もう、そこにいるのはあの溌剌とした女子高生ではなく、ただの真っ黒な―人の形をした塊にしか過ぎなかった。それが不意に半分ほどの大きさになってしまったのは、立っていたはずのてこなが力尽きてそこに崩れ落ちてしまったのだろうか。いつかの夜、東門の前で自分を襲ったあの不気味な悪寒を思い出して、秀之は両手で顔を覆った。もしあれが…この化け物の所為だったとしたら、あの―てこなという少女は一体、どうなってしまうんだろう。全身を覆った闇の奥で、苦悶に歪むその表情さえありありと想像できる気がして―だめだ。これ以上はとても、見ていられない―。
なのに、同じくこの有様を目の当たりにしているはずの藤蔭助手とせいるは、憎たらしいほど平然としている。
「やれやれ、ホント、気が短いんだから…。あたしだけだよ、あんたの友達務まるの」
あっけらかんとしたせいるの声。次いで、いかにも面倒臭げに動いた指先。宙に描かれた図形。
いきなり、黒い塊が跳ね上がった。闇に包まれたてこなが―いや、闇そのものがもがいている。何かから、逃れようとするかのように。少しでも早く、そこから離れようとするかのように。怖いもの見たさとでもいうのか、指の隙間からそれでも覗き見ていた秀之の心の中に、わずかな期待が生まれた。
(そうだ…そのまま、早くどっかへ行っちまえ! あいつさえ離れてくれれば、今ならまだ、あの子―助かるかもしれない!)
闇が大きく伸び上がり、上空へと逃れ出ようとした。と、そこでまたせいるの指先が動く。まさか―!
恐ろしい想像に、秀之の背筋がぞっと、冷たくなる。
まさか彼女は、闇がてこなから離れないように仕向けている…?
(殺す気か!? 「友達」を―)
我を忘れた秀之が、てこなを助けようとシートの陰から飛び出しそうになった瞬間。
凄まじい勢いで、闇がてこなから離れた。そしてそのまま、一気に夜空へと駆け上がる。だが、その速度は途中からがくりと落ち、上空三、四メートルというところでぴたりと止まった。そしてそのまま、ゆらゆらとそこにたゆたっているばかりである。その様子は心なしかひどく消耗しているように見えて。
だが、そんな闇のほうはどうでもいい。
(あの子はっ!?)
はっとして視線を戻せば、うずくまり、肩で息をしているてこな。こちらもかなり苦しそうだ。全く、どうしていきなりあんな莫迦な真似を―。
あまりに考えなしと思えるその行動に腹が立ち、ぐっと拳を握りしめた秀之の目の前でせいるがてこなに近づき、その肩にそっと手を置く。ところが、その愛らしい口からもれた台詞に、秀之は危うくずっこけそうになった。
「…どう、気分は。お腹一杯になった?」
どこをどう押せば、ここまで場違いな言葉が出てくるんだ。しかし、そのあとに続いたのは更にとんでもない言い草で。
「う〜。気持ち悪い。食べすぎと消化不良がいっぺんにきちゃった気分…」
「あんな化け物の上前はねようとするからだよ。よりにもよって、よくもあんなモンから『気』なんか吸い取る気になるね。あんた、いつか絶対食あたりで死ぬよ」
「だって、そうでもしなきゃケリがつかなかったじゃん。…それに、元はといえばあいつがこの大学の人たちから吸い取った…人間の『気』だから大丈夫だと思ったんだよぉ。…あー、それにしても気分悪い。ねえ、これ全部、あいつにぶつけちゃだめ? 今なら多分、一撃で片がつくと思うんだけど」
苦しげに顔をしかめたてこながちらりと上空を見やる。例の影はいまだその場にたゆたったまま―どころか、かなり高度を下げて、どんよりとわだかまっているばかりであった。どうやら、すでに浮き上がる力すら失いつつあるらしい。確かに、今なら簡単に粉砕することができるだろう。
しかし。
「だーめ。どんなモノでも、まずはきれいにして上に上げてやるのがうちの方針。気持ち悪いのはあとで何とかしてあげるから、てこなちゃん、貴女はちょっとそっちで休んでいらっしゃい」
からかいを含んだ、そのくせ有無を言わせぬアルトの声とともに、藤蔭助手がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
闇は、更に低いところまで沈み込んできていた。そればかりか、気まぐれな夜風が吹くたび、あちらこちらへとふわふわ漂い流れていく。と、風向きが変わり、それが一気に秀之の方へと吹き飛ばされてきた。
「うわああぁぁぁっ!」
いくら弱っているとはいえ、あんな化け物が目の前に迫ってきたのだからたまらない。反射的に上げてしまった大声に、藤蔭助手と二人の少女もぎくりとしてこちらを振り返る。
一瞬、三人の注意が影から完全にそれた。
途端。
すっかり力を失っていたはずの闇が、一気に反撃に転じた。爽やかな夜風とは似ても似つかぬ、一陣の凄まじい、そして邪悪な強風が巻き起こり、秀之が身を隠していた重く硬いシートを半分ほどまくり上げる。
「石原君!」
自らの『気』をてこなに吸い取られ、飢えた野獣と化した闇が、秀之めがけて一気に突っ込んできた。藤蔭助手の悲鳴。だが、恐怖と驚きに感覚が麻痺してしまった秀之はその場に突っ立ったまま動けなかった。迫り来る痛いほどの悪意。獲物をむさぼり尽くさんとする欲望。生き物の呼吸のように縮んでは広がる、まがまがしい暗い赤。
(だめだ、やられる―!)
覚悟の目をつぶった秀之を、闇が呑み込もうとしたその、一瞬前。
白い、華奢な影が宙を飛び、抱きつくように秀之に覆いかぶさってきた。その勢いに倒れこんだ体の脇を、古びた土と腐った魚の臭いの激しい風が音を立てて吹き過ぎて行く。真っ白に変わった視界。悪臭を追い散らすかのように鼻孔に流れ込んでくる、あの芳香。
「藤蔭先輩!」
「黙って! これは、『身固め』の法…。こうして、私がしっかり抱いていれば、貴方の『気』は決してあいつに吸い取られたりしない! だから…だから、動かないで! ずっとこのまま…こうしていて…」
ともに倒れこみ、身を重ね合わせた藤蔭助手の細い腕がしっかりと秀之の身体を抱きしめる。温かくて柔らかいその感触が、こんな状況にもかかわらず秀之の全身をかっと火照らせた。
だが、少女たちにとってはそれどころではなかったのだろう。
「お姉ェっ!」
せいるの絶叫が鼓膜を貫く。動揺のあまり生まれた一瞬の隙。
闇がそれを見逃すはずはなかった。藤蔭助手のおかげで見失った標的の代わりに、また新たなる獲物を見つけた赤い光が目にも止まらぬ速さで反転する。
「きゃああああぁぁぁっ!」
せいるが避けようとしたときにはもう、遅かった。直撃は免れたものの、少女の身体が見事に弾き飛ばされ、傍らのコンクリート塀に激突する。
「せいるっ!」
つい今しがたまでの苦しげな様子も何のその、慌てて駆け寄ったてこながせいるを抱き起こす。ぎりぎりと歯を食いしばる音が、秀之の耳にもはっきりと聞こえた。
「畜生…もう…完璧に怒った!」
まだそこにうずくまったままのせいるをかばうかのように立ち上がったてこなののどから、とても少女のものとは思えないほど低い、凄まじい声が迸った。
「ウオオオオォォォッ!」
それは、怒りに燃えた獣の遠吠え。真っ直ぐに伸びた両の手首が、一気に捻りあわされたと見るや、今までのものとは段違いの強烈な光が弾き出され、再び上空にわだかまった影めがけて鮮やかな軌跡を描いて…飛んだ。
光と闇の激突。世界がハレーションを起こし、その場にいたもの全ての目を眩ませる。
「せ…先輩…」
不安げな秀之の問いかけに藤蔭助手がふんわりと笑ったのだけが、白一色の世界の中で、はっきりと見えた。
「大丈夫よ。…だけど、てこなちゃんついにキレちゃった。できればきれいにしてまた眠らせるか、上に上げてやりたかったんだけど…ああなっちゃ、多分もう、無理だねぇ。ま、あれだけ派手にぶっ放せば、あの子の気持ち悪いのも治っただろうし、それでいっか」
そのときにはもう、周囲は元の暗さを取り戻していて。もはや発光もせず、さらにゆっくりとした伸縮だけを繰り返す闇が、息も絶え絶えなふうに空中に漂っているだけだった。
「しぶといなぁ…まだ、くたばらねえのかよ!」
憎々しげに言い放ち、再び手首を重ね合わせようとしたてこなの腕を、ようやく立ち上がったせいるがそっと押さえる。
「てこな…悪い。最後は、あたしにやらせて。…やられっぱなしで終わるなんて、そんなの、我慢できない!」
そしてそのまま、てこなを押しのけるように前に出る。コンクリートの塀にぶつかった所為か、埃まみれになったその右手が、真っ直ぐに上がった。
「もう、あんたの負けだよ…このまま永遠に、常世の闇に還れっ!」
白い指が描いた図形。それが星型―五芒星の形を描いていることに、秀之は初めて気がついた。
せいるの指が、星の形を空に描き終えたと同時に、闇の様子が変わった。何か、目に見えない力に引き寄せられるかのようにじりじりとその高度が下がり、またも激しさを増したその伸縮も、蜘蛛の網にかかった小さな虫が、懸命にもがきまわるさまにも似て―
必死の抵抗もむなしく、とうとうその端が糸のように細く伸び始め、真っ直ぐに、引き寄せられていく。せいるの、指先に向かって。
こうなってはもう終わりだった。闇色の糸が白い指の先に触れたと見るや、そのまま一気に吸い込まれていく。やがてその全てが、可愛らしい少女の指先に絡め取られ、消えていくまでの時間は、一分もかからなかったに違いない。
「はい、お仕事完了!」
「お見事でした。…ところで、大丈夫? 怪我とかしてない?」
「うん…もしかしたらあちこちアザになっちゃうかもしれないけど、とりあえず平気。それより制服、破れてない?」
そう言って身をくねらせるせいるの全身を点検し、埃を払ってやりながらてこなが安心したように笑った。
「何ともないみたいだよ。まあ、かなり真っ白になっちゃったけど」
「よかったぁ。中身は放っといても治るけど、制服破いたりしたらお母さんに叱られちゃう。白いのはコンクリートの粉だろうから、はたけば落ちるよね。それよりあんたの方は? 気分、よくなった?」
「うん。さっきので全部吐き出したからすっきりした。もう、何ともないよ」
もう、彼女たちはごく当たり前の女子高生に戻っていた。けらけらと屈託ない笑い声が、夜空に響く。
一方、秀之は。
「…やれやれ。どうやら無事片づいたみたいね」
藤蔭助手のつぶやきにはっと我に返れば、自分たちはまだ、抱き合ってその場に倒れたままだった。これではまるで、秀之が藤蔭助手に押し倒されたとしか思えない格好である。あらためて、秀之の全身が真っ赤になった。
「あ…あのっ。藤蔭先輩っ!」
掠れた悲鳴に、藤蔭助手が妖艶な笑みを浮かべる。
「…あら、失礼。若い男の子と抱き合うなんて久しぶりだから、お姐さんつい、嬉しくなっちゃって」
それは冗談なのか、本気なのか。言葉を失った秀之から、藤蔭助手の身体が静かに離れる。
「お疲れさん。助かったわ」
「ごめんなさーい、聖さん。あたし、ついつい本気、出しちゃったぁ」
「てこなの所為じゃないよ。あたしが油断して、やられちゃったから…ごめんね、お姉ェ」
口々に言い合いながらやってきた、二人の少女。
「あれ…? だあれ、その人。もしかして、さっきお姉ェが急に飛び出したのって…」
今になってようやく秀之の存在に気づいたのか、首をかしげたせいるの言葉をさえぎるように、藤蔭助手が口を開いた。
「この人はね、あたしの後輩で、石原秀之君。ここの一年生だから、貴女たちより一つ、年上かな? たまたま行きあわせたらしくて、もうちょっとで巻き込んじゃうところだったわ」
秀之を指し示した藤蔭助手の手の動きはとても美しく、礼儀正しいものだったけれど、そのときの秀之はまだ、その場にへたり込んでしりもちをついた格好のままだったのだ。どう考えても、あまり格好いい紹介のされ方とはいえない。案の定、少女たちは秀之を一目見るや、さらに大きな声を上げて笑い転げた。
「ほらほら、あんまりそんな、莫迦笑いするんじゃないの。失礼でしょ。秀桜学園自慢の猫はどうした、猫は。こういうときかぶらないで、いつかぶるの」
「お姉ェ…そんなこと言っちゃったら、うちらが猫かぶりだって白状してるようなもんじゃない。今更お嬢様ぶったって無駄だよぉ、無駄」
藤蔭助手をやり込めつつ、せいるがそれでも、てこなと並んで秀之に向かってきちんと頭を下げる。
「初めまして。藤蔭せいるです。今日は、脅かしちゃってごめんなさい」
「卜部てこなです。同じく、ごめんなさい。でも、とりあえず無事でよかったですね」
今まで気がつかなかったが、せいるもてこなもかなりの美少女だった。だが、あの闘いの一部始終を目撃してしまった者にとっては、かなり…怖い。秀之の表情が強張ったのを察してか、藤蔭助手がそっと二人を促した。
「…さ、それじゃあんたたちは先に門のところまで戻ってらっしゃい。あまり遅くなるとおうちで心配するでしょう。送ってったげっから」
「ええ〜。あたし、今日はお姉ェんちに泊まるって言ってきちゃった」
「あ、あたしも」
あっけらかんと言い返されて、藤蔭助手の目が点になる。さすがの彼女も、この天衣無縫、傍若無人な小悪魔二人には振り回されているらしい。
「ちょっとあんたたちねぇ、人に黙って勝手にそんなこと決めてこないでよぉ!」
「だって聖さん、『遅くなるかも』って言ってたでしょう?」
「送る手間が省けていいじゃん。ねえ、それよりお腹すいた。お姉ェ、ごはん食べさせて」
藤蔭助手がぐっと言葉に詰まった。信じられない光景である。
(…すごい。すごすぎる。あの藤蔭先輩の目を点にした上、絶句させるなんて…)
どのような美少女とはいえ、この子たちとは絶対に関わり合いたくない。いまや全身を硬直させた秀之の額には、汗の粒がびっしりと浮かび上がっていた。
「ああもう、わかったっ! 何でも好きなだけ食べさせてあげるから、とにかく先に行ってなさいっ!」
「ああ〜。もしかしてお姉ェ、その後石原さんと二人っきりで…?」
「うわぁ、すごいっ! もしかして、ラブラブなんですかぁ?」
「うるさいっ! いいからさっさと行けっ!」
いつものアルトとは似ても似つかない甲高い怒鳴り声が響いた途端、少女たちはきゃあきゃあ歓声を上げながらもと来た方へと走り去って行った。残されたのは、秀之と藤蔭助手の二人だけ。
「…ごめんなさいね。うちの従妹どもは躾が悪くて」
藤蔭助手のほっそりとした手が、そっと秀之の方に差し出される。そう、秀之はまだ、そこにしりもちをついたままだったのだ。
「あ…あ、従妹…どうりで、顔立ちが似てると思った…」
呆然とした秀之には、それだけつぶやくのがやっとだった。目の前の手をおずおずと握り返してみると、ひんやりと冷たい。
「あ、もっともそれはせいるだけだけどね。てこなちゃんは、あの子の友達。…でも、そんなこと今はどうでもいいのよ…」
言いながら、藤蔭助手が静かに自分に近づいてくる。秀之の身体が、またも硬直した。
「あのね、石原君…」
静かな声。淡い微笑。それはまぎれもなく藤蔭助手。あの日図書館で出会って以来、ずっと憧れて、追いかけ続けてきた美しい人。
なのに、何故だか背筋に冷たいものが走った。反射的に一歩後じさりながら、彼女を「恐ろしい」と思っている自分に気づき、秀之は愕然とする。
(どうして…? どうして僕が、先輩を怖がる必要があるんだ。あんなにも好きで、憧れて、守りたいと…思った人なのに)
気持ちとは裏腹に、足は一歩一歩後ろに下がる。だがすぐに背中が校舎の壁にぶつかってしまった。これ以上は、どこにも行けない。
藤蔭助手は、さらに近づいてくる。そして、あっという間に秀之のすぐ目の前までやってきて―。
「一つ、お願いがあるの。大切なことよ」
今にも、唇と唇が触れ合いそうな距離。ふんわりと漂う、あの芳香。頬にかかる、甘い吐息。
(そうだ…この人は確かに、先輩だ…人間だ…。生まれて初めて、僕が本気で好きになった…藤蔭さん…)
なのに、この冷気は何だろう。こんな、真夏の夜だというのに。…あのときと同じ。そう、あのとき…例の東門の前で彼女に会った、あの夜と。
不気味さや不快さこそは感じないものの、言いようのない冷たさに包まれた、その感覚だけは同じで。
目の前の美しい白い顔の中で、漆黒の瞳がきらりと光った。
「貴方は、とても優しい人だから…このまま、何もしないで帰してあげる。だけど、今夜ここで見たことは誰にも言っちゃ駄目。いい? 約束よ。もしも破ったら、そのときは…貴方の命を、もらうからね…」
秀之の顔から血の気が引いた。
(『命をもらう』って、そんな…まさかそんなこと、藤蔭先輩が、本気で言うなんて…)
何の脈絡もなく、小さな頃に読んだ昔話を思い出した。
「雪女…」
(私のことは、誰にも言ってはいけないよ。もしも約束を破ったら…お前の、命をもらう)
主人公、蓑吉への雪女の台詞が、今の藤蔭助手の言葉に重なる。
かすかなつぶやきを聞きつけて、藤蔭助手の唇の端がゆっくりとつり上がった。凍りつくほどに恐ろしくて―だからこそ、吸い込まれるように美しい、アルカイックスマイル。
「ふふ…そうね…私は確かに、雪女かもしれないよ…」
長い黒髪に白衣。そして、透き通るように白い肌。まさに雪女さながらの妖しい美貌にひたと見つめられ、秀之はもう、首がちぎれんほどの勢いで、がくがくと繰り返しうなづくことしかできなかった。
「じゃあね、石原君。私達はこれで」
気がつけば、東門の前、あの工事現場の脇に立っていた。目の前には、藤蔭助手と二人の少女。藤蔭助手はすでに白衣を脱ぎ、涼しげな淡いブルーのワンピースと生成りのジャケット姿になっていた。
「石原さん、失礼します」
「さようなら」
ぺこりと一礼した少女たちを引き連れ、藤蔭助手は東門に向かう。
「何食べよっか?」
「焼肉―! ロースにカルビに、あ、ビビンバも!」
「あたしはタン塩にミノ、それから冷麺!」
「この暑いのに、よくそんなもん食う気になるね…第一、あんたたち、焼肉屋なんか行ったら、制服に匂いついちゃうじゃないの」
「いいもーん。明日からは夏休みだから、クリーニング屋に出しちゃうもん」
「こら、せいる! 言っちゃいけないことを言ったなぁっ! こちとら社会人には、そんなモンないんだよっ! も、晩メシは抜き! さっさと家帰れ!」
「あーん、お姉ェ、ごめんなさぁい」
「もう言わない。言わないから、焼肉ぅ…」
他愛ない会話が、ゆっくりと遠ざかって行く。秀之はただ呆然と、夜の闇に消えていく三人の後姿を見送っているだけであった。
そして―。
真冬にしては暖かすぎるくらいの、とある昼下がり。
今や立派な青年医師となった秀之は、あの慰霊碑前で、静かに手を合わせていた。
「…早いもんねぇ。あれから、もう十年…いや、十一年?」
傍らで同じく手を合わせていた藤蔭助手―いや、現在はこの大学の付属病院精神科の勤務医となった藤蔭医師―が、お参りを済ませた後でしみじみとつぶやく。
「何だか、ちっともそんな気がしないんですけどね。先輩は相変わらず若々しくて綺麗だし、僕はいつまでたってもガキだし」
「そんなことないわよ。石原君はこんなに立派なお医者様になったじゃないの。貴方がお父様の医院を手伝うって聞いたとき、うちの病院の外科部長が歯ぎしりして悔しがってたの、知ってる? 『今からでも遅くはない。主任医師待遇で待ってる』ですって」
「はは…」
照れ笑いを浮かべた秀之の目に、あの頃と同じシャボン玉がいくつか、晴れた空に浮かび上がっていくのが見える。
「また、上がっていきましたね」
「うん…。今でも犠牲になる小さな子たちがたくさんいるのは哀しいことだけど、毎日こうして、少しずつでも上がって行ってくれるのが救いだわ。それにしても貴方、相変わらず霊感強いわね」
「とんでもない。僕がわかるのは、ここの小さな魂だけですよ。それ以外の霊体験なんて、恥ずかしながら一つもしたことがない」
「嘘おっしゃい。あのときの悪霊だって、ちゃんとわかっていたくせに」
「あれは…」
言葉に詰まったのは、まさか十年ぶりにその話が出るとは思わなかったからだ。あれからもずっと、藤蔭医師とは親しい先輩後輩としてつき合ってきたが、あの夜のできごとを口にしたことは、互いに一度もない。
「…ま、それくらいがちょうどいいか。下手に『能力』なんて持っちゃうと大変よ。苦労ばっかり」
藤蔭医師の苦い笑みの理由が、今ならよくわかる。十年という月日は、彼女の生い立ち、そしてその家系についての事情をそれとなく秀之の耳に伝えてきていた。秀之はちょっと困ったような顔になり、それから努めて明るく、傍らの女医に話しかける。
「そう言えば、先輩の従妹…せいるちゃんでしたっけ。どうしてます? お友達のてこなちゃんとはまだ、仲良くしてるんですか?」
「せいるは結婚して、いっちょ前に『お母さん』してるわよ。女の子が一人いてね、そろそろ二歳のお誕生日じゃなかったかしら。おしゃまの悪戯盛りでてんてこ舞いだってこぼしてたから、そんなの、母親に似たに決まってるでしょ、って言ってやったわ。てこなちゃんは…親戚でも何でもないのに何故かあたしに似ちゃってね。いまだに独身のキャリアウーマンよ。どっかの旅行会社に勤めてるんですって。上司が独立して会社興すらしくて、一緒に来ないかって誘われて悩んでるってせいるが言ってた。あの子たちは今でもしょっちゅう、一緒にお茶飲んだりおしゃべりしたりしてるみたい」
「学生時代の友達って、そんなもんじゃないんですか。コズミ研の同窓会ももうそろそろでしょう」
「みんな、どうしてるかしらねぇ。矢部君がS私大の助教授になったのは風の便りに聞いたけど。…あの人なら絶対現場で熱血教師やると思ってたのに、ちょっと意外だったな」
「矢部さんのことですから、何かきっと思うところがあったんですよ。ともあれ、ご家庭も円満でね、もうすぐ三人目が生まれるって」
「はぁ。よくやるわ」
「葛原さんは弁護士、内藤さんは社会派コラムニストで、ときどきTVにも出てますよ」
「懐かしいなぁ。でも、日高君は別ね。毎日病院で会ってるから、今更同窓会も何もないわ」
「内科でしたよね」
「うん、そう。それがねぇ、この間、出勤途中で近所の子犬が自転車にはねられたのにぶつかったんだって。それを手当てして獣医さんに運び込んでたおかげで月例会議に大遅刻。あれで、医局長就任は一年延びたわね。『我が道を行く』性格は、大学時代そのままよ。あ、でも村瀬さんには会いたいな」
「まさか日高さんと村瀬さんが結婚するとは…僕、正直ぶったまげちゃいましたよ」
「あらそう? あたしなんかは、いつかあの二人絶対ゴールインするな、って思ってたけど」
そんな会話を交わしながら、二人連れ立ってキャンパス内をあてもなく歩いてみる。ふと、その歩みが止まった。それは、あれからすぐに改築された医学部一号館前。秀之と藤蔭医師はどちらからともなく顔を見合わせる。
「結局、あのときの化け物は何だったんでしょうねぇ」
さり気ないふうを装って、秀之は口に出してみた。あの夜、彼女に言われた「約束」を固く守り通してきたとはいえ、あれからずっと、気になっていたのだ。
「ああ…あれはね、かなり古い人霊よ。戦さか、行き倒れか…どちらにせよ、あまりいい死に方はしてないわ。多分、以前はそれを祀る塚か何かがあったんでしょうけど、いつのまにか忘れ去られて…ついには、こんな大学の校舎が建っちゃった。実は、あの旧校舎を建てるときにも何やらあったみたいでね。それであの祠を作って、どこかの神様を勧請してきたらしいんだけど、そのときの祭祀が完璧じゃなくて、抑えきれなくなっちゃったのね。さっきの…」
藤蔭医師がかすかに顎をしゃくってみせたのは、今しがたお参りしてきたばかりの慰霊碑。
「あそこにいる子達もその暴走を防ぐために必死に頑張ってくれたんだけど、何せ長い年月を経て半ば妖怪化してたからね。こういう、たくさんの人が集まる場所にあんなもんがいると、みんなのよくない感情をどんどん吸い取って、より強大に、邪悪になる…それが目覚めたらもう、下手な爆弾より怖いわ。何しろ、生き物という生き物を見境なしに取り殺そうとするからね。だけどそれって、よくあることなのよ。あの時もかなりの学生がやられたけど…死人が出なかっただけマシってものだわ。…でも石原君、今まであたし、その話してなかったっけ?」
振り返った藤蔭医師の幾分、きょとんとした表情が、秀之の目には最高に可愛らしく映った。
「ええ。初めて伺いました。だって先輩…約束だったでしょう?」
真面目くさったその言葉に、藤蔭医師の顔がほころぶ。
「ああ…そうね。そうだったわね。ごめんなさい。あの時あたし、貴方を必要以上に怖がらせちゃったんだわ」
「そんな…」
言いかけた秀之に、そっと首を振って。
「ううん。あれはわざとだったのよ。貴方の命を取ろうなんて、これっぽっちも思っていなかったけど…正直、まだ貴方という人を完全には信用できなかったから…。もしもあんなことをあちこちで言いふらされたら、あたしはともかく、あの子たちが…せいるやてこなちゃんの将来がどうなるかって、それが怖かったの。だってあの時、二人はまだ高校生だったんですもの。でもその反面、貴方みたいに優しい、真っ直ぐな人の『気』を必要以上にいじることはしたくなかったし。だから、絶対に喋らないようにって念入りに脅かしちゃったのよ。…でも、よかった。貴方は、蓑吉じゃなかったのよね」
じっと自分を見つめる漆黒の瞳には、あの夜の妖しさの代わりに、信頼と安心の光が一杯にみなぎっていた。秀之も同じ思いを込めて藤蔭医師を見つめ、大きくうなづく。
「はい。僕は、蓑吉じゃありません。それに…先輩だって、お雪―雪女じゃ、なかった…」
冬の日差しの中で、愛しい人が笑う。真夏の夜の雪女は、今はごく普通の美しい女性にしか過ぎなかった。
秀之はそこで、軽く咳払いをする。…そう、今日ここに藤蔭医師を訪ねた、本当の目的を告げるために。
「ところで先輩。話は変わりますが、コズミ先生のお友達のギルモア博士という方をご存知ですか? 実は今日伺ったのは、そのギルモア博士の…『ご家族』の皆さんのことで、ちょっと相談がありまして…」