第八章 夢の途中


 夜も更け、自分の部屋に引き取ったジョーは、着替えることもベッドに入ることもせず、苛々と部屋の中を歩き回っていた。
(おかしい…何かが、おかしい…)
 藤蔭医師。彼女は一体何者なんだろう。アルベルトやジェットが不信感を持っていることにはとうに気づいていた。今日、フランソワーズと自分を家から追い出したのだって、ジェットが自分たちをかばってくれようとしたのだということは薄々感じている。
(でも…何といっても、石原先生の紹介なんだし…)
 石原医師が自分たちに対して悪意を持っているなどということだけは、絶対に信じられない。知り合ってからまだ一年ちょっとしか経っていないが、その間彼がどれほど自分たちのために親身になってくれたか…それを思うとただただ、頭が下がるばかりである。そんな彼の気持ちが嘘だなどと、そんなことは決してあるはずがなかった。
(ただ、確かに…藤蔭医師と会ってからのみんなは変わった…)
 何かを考え込んで。口数が少なくなって。ぼんやりと、自分の世界だけに閉じこもってしまったみたいで。
 だが、それでもジョーが黙っていたのは、何となく―そんなふうになってしまっていても―仲間たちの鬱屈が晴れたように思えたからなのだ。
(今回帰ってきた海外組のみんなは、どこか辛そうに、苦しそうに見えた。いつもと変わらず振舞っているように見えても、何か深く思い悩んでいるような感じで…いや、張大人やグレートだって同じだ。やけに熱心に仕事に打ち込み過ぎたり、せっかくの客演の申し出を断ったりして。何かあるとは思ったけど…でも、みんな僕よりはずっと大人だから、戦闘中ならともかく、こんな…平和な日常生活の中では、僕みたいなガキが偉そうに相談に乗ったりすることなんかできないと思って…)
 心ならずも見過ごしていた、その重い空気が。
 藤蔭医師の説明を受けたあと、すっきりと消えていたことをもまた、ジョーは敏感に察していたのだった。
(今のみんなにはちょっと近寄り難いけど、少なくとも、前よりは自分自身に正直になったような気がする。悪い変化ではない、というそんな気が…)
 答えの出ない問いの中、落ち着きなく動き回っていたジョーを、不意に激しい睡魔が襲った。
(あ…)
 思考が途切れる。四肢の力が抜ける。あわやそのまま床に倒れこみそうになるのを必死にこらえ、半ば意識を失いつつも、何とかベッドにたどり着いて最後に思ったこと。
(できれば…明日はフランソワーズよりも先に、僕が呼ばれるといいんだけど…)
 頭の中に浮かんだそんな思いをすら自覚することなく、そのままジョーは深い眠りに落ちて行った。

 初夏の青い空。草いきれ。遠く聞こえる雲雀の声。
 夢の中、高校一年になったジョーは、ぼうぼうと草の生い茂った川べりの土手に、大の字になって寝っ転がっていた。
 頭のてっぺんに、こつんと当たるもう一つの頭。この姿勢では見えないけれど、それはきっとさらさらの、絹糸のような髪に覆われていて。
「…姫」
 そっと呼びかけてみると、相手はゆっくりと起き上がったようだった。
「何だよ」
 にじり寄るようにジョーの頭のすぐ脇にやってきて、そのまま腰を下ろした少女。紺色のブレザーの制服。切れ長の、漆黒の瞳。日本人形のような顔立ち。
 目覚めているときには何の記憶も残っていないくせに、夢の中ではこの少女とともに過ごした二年間がしっかりと頭に刻み込まれている。
 初めて出会った、中学二年の春。以来、少女は何度となくジョーの前に現れた。ただ、その現れ方はひどく気まぐれで―ほとんど毎日のように姿を見せたかと思うと、何ヶ月もふっつりと消えてしまうことがある。だが、一つだけわかっているのは、彼女が姿を見せるときは、決まってジョーが窮地に立たされているときだということ。
 あの時、年上の高校生相手にいいように弄られているしかなかった少年は、いつの間にかいっぱしの「ワル」として都内の不良どもの間に名をとどろかせる存在になっていた。だが、仲間も友達も持たず一匹狼を通している限り、数で攻められた場合には少なからず苦戦を強いられるのは当然のことである。追い詰められ、逃げも隠れもできないままに圧倒的な人数で襲いかかる敵に袋叩きにされるのを覚悟した、そんなときに限って彼女はどこからともなく現れて、ジョーに加勢してくれるのだった。そして不思議なことに、このたった一人の援軍が加わっただけで、いつも形勢は逆転する。
 白くて細い人差し指と中指に挟まれたカミソリが銀色の軌跡を描くたび。漆黒の、絹糸の髪が花びらのように翻り、透き通るようなその頬に乱れかかるごとに敵の数は面白いように減っていき、最後は浮き足立ったそいつらをジョーの拳が屠る、それがお決まりのパターン。そして、全てが片付いたあと、彼女に何かしらのお説教を喰らうことも。
(何で、そう無防備にふらふら歩いてんだよ。ちったぁ、てめえの立場を自覚しろ!)
(不意打ち喰らって、そのまま喧嘩にお付き合いするバカがどこにいる!? そういう時はとにかく逃げろ。仕返しなんざ、あとでいくらでもできるだろうが。ちっぽけなプライドや男のメンツなんて、さっさと捨てちまえ、このクソガキ!)
(拳一つでしのいでいくつもりなら、利き腕には絶対荷物なんか持つんじゃねぇ! 鞄なんざ、学校に置きっぱなしにしとけ! 勉強なんざしなくても死にゃしねえんだよ。それより、襲ってくるチェーンやナイフをどう避けるかの方が大事だろうが! まともに喰らったらその場であの世行きだぞ!)
 でも、ジョーが少しずつ強くなっていき、「都立北高の狂い狼」の名がじわじわと広まっていくにつれて、そんな羽目に陥ることはほとんどなくなっていった。
 だから、今日は本当に、久しぶりだったのである。隣県の不良グループが、どういう伝手をたどったのかその筋の連中までも引き連れてわざわざ彼一人を仕留める為に、それもこんな真っ昼間から出張ってくるとはさすがに思いもつかず、巧妙に誘い出されて、気がついたらこの土手の下、たった一人で数十人を相手に闘っていた。倒しても倒しても、尽きることなく襲いかかってくる敵。息が上がり、足がふらつく。流れる汗が目に入り、つい拳で拭ったそのわずかな隙に、一本の鉄パイプが凄まじい勢いででジョーの足をなぎ払った。そして、倒れかかったところに殺到する獣たち。もはや、なす術なし…とジョーが観念の瞳を閉じようとしたまさにそのとき。
「何やってんだよ、てめえら!」
 まさしく風のように、土手を駆け下りてきた紺色のブレザー。陽光にきらめく刃。
 それからあとは、いつも通りだった。乱闘の行方も、そのあとのお説教も。そして、全てが終ったあと、さすがに精根尽き果てた二人はそのまま、生い茂る草むらの中に崩れるように倒れこんだのであった。

「…何だ、って訊いてんだよ」
 少女の声が少し苛ついてきたのに気づき、ジョーは苦笑を浮かべる。
「うん…ごめん。たださ。俺っていつも、あんたにはカッコ悪いとこばかり見せてるなあって」
「何を今更」
 少女が、くすりと笑った。初夏の日差しの中、仄かに紅く染まる頬は乱闘の名残か。でも、そんな彼女をジョーは綺麗だと思う。
「ほめられたのって、あのときだけだったよな。…『富姫』について、ちゃんと調べたとき」
 あの、遠い春の日。立ち去る少女が言い残した言葉を、少年は必死に調べたのだ。もっとも、その結果は思いもかけないものだったが。
「まさか、妖怪のお姫様だったなんて…あの時はマジで、びっくりした」
「『学びて、常にそれに驚く』。お勉強の基本だろうが」
「それ、ちょっと違うと思う」
 声もなく、二人は笑う。でも、ジョーの心はまだ、その思い出をなぞることをやめてはいなかった。
(泉鏡花。『天守物語』…妖怪の姫君、富姫と、人間の若き鷹匠、姫川図書之助との恋物語…)
 富姫に自分をなぞらえた少女の意図はどこにあるのか。まさか、恋の告白などではあるまい。恋だの愛だのの為に引っ張り出すなら、他にもっと有名な話がいくらでもあるのだ。なのにわざわざ、富姫の名を持ち出してきたというのは。
(もしかして、自分が妖怪だって言いたいとか? はは…まさかな)
 考えるだけお笑い種だ。…でも、結局ジョーはそのまま彼女を「姫」と呼んでいる。少女が決して名前を教えてくれない所為もあったが、ジョー自身、それが何より彼女に似合っているような気がして。
(俺、全く何考えてんだか)
唇の端に浮かんだ笑みを目ざとく見つけ、少女が怒ったようにジョーの鼻をつまむ。
「おい、感じ悪いぞ。一人でへらへら笑いやがってよ」
「…ごめん。でもあんたには、いつも驚かされてばっかりだからさ。最初、乙姫様のことを『性悪』って言ったときも、目が点になっちまった」
「…性悪は、性悪だよ」
 ほんの少し、沈んだ声。ジョーの茶色の瞳が、ふとそちらの方を向く。
「好きな男が自分から離れていくからって、あんな…玉手箱なんか渡してジジイにすることねえだろう? きっぱりさっぱり忘れて、新しい人生歩けばいいのにさ。…でも…でもそれが、女心ってやつなのかな。それが、あたしには、わからないから…わかんねえよ。あたしには…この先いくら年食ったって…いくら…ババアになったところで…」
 だんだん小さくなっていくその言葉の最後は、ほとんど聞き取れなかったが。
「ま、でもよぉ」
 不意に顔を上げたその口調は、紛れもなくいつもの「姫」そのものだった。
「乙姫様の名誉の為に言っとけば、一応、あの話には続きもあるらしいぜ。乙姫様…やっぱ、浦島太郎を追っかけてきたんだってよ。…で、無事太郎さんとめぐり合って、二人でどっかの神社の神様になってめでたしめでたし。ハッピーエンドだってさ」
 不意に立ち上がったのは、そのときの表情を見られたくなかったからだったのだろうか。寝転がったジョーの前に背を向けて立ったその姿は、なんだかひどく頼りなさげに…はかなく見えた。
「でも、そんなこたどうでもいいだろ。それよりお前、いつまで一匹狼続けるつもりなんだよ」
 向き直ったところで、逆光の中、その表情をうかがい知ることはできない。仕方なく、ジョーは少女のシルエットに向かってぽつり、ぽつりと語りだす。
「俺にも、わからない…あんたの言う、『マシなダチ』はいまだに見つからないままだよ。寄って来るやつはどいつもこいつも雑魚ばっかりだ。弱っちくて、そのくせずる賢い連中さ。俺に守って欲しくて、そんでもって何かに利用しようとしてる。あんな奴らに比べれば、あんたの方がよっぽど…」
 頼りになるダチだ、そう続けようとしてジョーは口ごもった。
(自分はいつも、彼女に助けられてばかりいる)
(だとしたら、彼女にとっての自分は、紛れもなく…雑魚でしかない)
(ダチなんて言う資格、俺には…ない)
 言葉をなくし、視線もいつしか下を向く。と、そこへ。
「…ダチなんてのはな、強い弱いじゃねえんだよ」
 はっと顔を上げれば、そこには太陽を背にしてまぶしいばかりに輝く―姫。
「例え弱くても、心の底からあんたを思い、あんたを大切にしてくれて、あんたの為に必死になってくれる、そんな奴がもし見つかれば、それこそが本物のダチなんだ。強さや弱さなんか計算に入れるな。どんなに弱っちい奴でも、必ずあんたにない何かを持ってる。そういう奴同士が、互いに引き合うもんなんだからよ」
 一瞬、ジョーは絶句した。だったら…もしあんたが、そう言ってくれるんなら。
(いいのか…? 俺があんたのことを、ダチだって思っていても…)
 その思いを言葉にしようとしたわずか一瞬前に。

 不意に夢は途切れ、ジョーはそのまま更に深い眠りに引き込まれた。そしてそのまま、夢は二度と彼の元に戻ってくることはなく…。

 それとちょうど、同じ頃。
「畜生、ドジった!」
 ギルモア邸の書斎に、藤蔭医師の鋭い舌打ちが響く。結跏趺坐の姿勢で座り込み、小一時間も微動だにしなかった彼女は、白衣の下に昼間着ていた白いブラウスと濃いグレーのスカートを身につけていた。昨夜の、素肌に白衣一枚を羽織った格好ではさすがに寒かったのだろうか。しかしそれも、エアコンもつけないままでフローリングの床にじかに座り込んでいたのでは、大して役に立たないと思えるのだが。
「今夜しか…もうチャンスはないのに…あの子の心を開かせるには、まだ、不十分だったってのに…」
 唇を噛み、憤懣やるかたない形相で立ち上がったその切れ長の瞳が、ふと何かに気づいたように窓に向けられた。つかつかとそちらに歩み寄り、鬱憤を晴らそうかとでもいうような勢いで窓を全開にする。途端、凍るような風とともに、白い、細かい粒が室内へと吹き込んできた。
「雪…」
 いつの間にか外は、暖かいこの地方には珍しいほどの大雪になっていた。風も強い。吹雪、といってもいいかもしれない。
「だからか…。ええい、もう! こんなモンで動揺してるようじゃ、あたしもまだまだ修行が足りねぇな…」
 男勝りの口調にもかかわらず、その表情は切なげに、哀しげに歪んでいる。
 そして、しばらくの間無言で夜の闇に渦巻く吹雪を見つめていた彼女はやがて静かに窓を閉め、足音を忍ばせてひっそりと部屋の外へと出て行った。

 


前ページへ   次ページへ   二次創作1に戻る   玉櫛笥に戻る