第十三章 ジョー
緊張の面持ちで、ジョーは書斎のドアを叩き、静かに部屋に入った。
(二人だけで話すのはこれが初めてだな…藤蔭医師。…一体、本当の彼女はどういう人なんだろう?)
しかし。
意外なことに、机の周囲には誰もいなかった。
(え…?)
不審げに周囲を見回すと、机の左手、南に向かって大きく切られた窓を背に、一人の女が立っている。逆光の中、一見するとただのシルエットにしか見えないが、それが藤蔭医師に間違いないことだけはかろうじてわかる。
「藤蔭…先生…?」
呼びながら、自分の中にある既視感に気づく。
(どこかで…見たことがある。こんなふうに、光を背にして立っていた…あれは…誰だっただろう…いつのことだっただろう…)
周囲の景色が、ぐらりと揺れた。潜在意識の奥底に封じ込まれた夢と、顕在意識が捉えている現が、意識の支配権をめぐって激しくぶつかり合う。眩暈と悪寒。息が苦しい。
「あ…」
突然の変調に、救いを求めて伸ばした腕の先、シルエットの女がゆっくりと自身の襟足に手をかけ、やわらかなシニョンをほどく。ふわりと落ちる、長い髪。
その瞬間、封印はとかれた。夢が現を押し流し、夢幻の過去が現実の記憶に取って代わる。
「姫…!」
「よう。生きてたか」
目の前で笑っていたのは確かに…姫。遠い昔、まだ自分が人間だった頃、たった一人…自分を守り、導いてくれた少女の、美しく成長した姿だった。
「元気そうで何よりだな。…どれ、もっとよく、顔見せろよ」
もう、二十歳はとうに越えているだろうに、乱暴な口調、そして不敵な笑みは変わらない。だが、近づいてくるその姿から、何故かジョーは遠ざかる。逃げるように…震える足で一歩、二歩…後ろに下がる。
「おい、どうしたんだよ。せっかくの再会だってのに」
幾分不満げに眉をひそめながらも、姫はなお、ジョーに近づく足を止めない。
「来…来るな! 俺なんかに、近づくなよ!」
「は…?」
いつしかジョーは両腕で頭を抱え込み、小さな子供がいやいやをするように激しく首を振り続けていた。
「俺は…あの時あんたを殴った…! あんたは、ほんの冗談のつもりで言ったのに…それを真に受けて…男の俺が、女のあんたを…思い切り…」
「ああ、あのことか」
姫の鼻がおかしげにくすんと鳴る。
「確かに、あのパンチは効いたなぁ…でも、あたしはそんなこと気にしちゃいないよ。お前のこった、何か理由があったんだろ? どちらにせよ、もう遠い昔のことじゃねえか」
「そんなことない…! どれほどの時間がたとうと、俺があんたを殴ったって言う事実は…消えやしない! 永…遠に…」
血を吐く叫びに、姫は少し困ったような顔になる。
「だからそれは、もういいって言ってるだろうがよ…」
いくら繰り返しても、ジョーは頭を抱えたまま、両腕で姫の視線を遮るかのように顔を覆い、激しく首を振り続けるばかりである。いささかもてあまし気味に、姫の小さな鼻がまた、くすんと鳴った。
「それくらい許せなくてどうすんだよ。あたしがあの時お前に言ったことは決して、冗談でも嘘でもないんだぜ?」
一瞬、腕の隙間から茶色の瞳が姫を見つめた。だが、それもつかの間のこと。ジョーはふらふらと後ろに下がり続け、とうとうその背がドアにぶつかると同時に、崩れるようにその場に座り込んだ。それを見下ろす姫が、やれやれと言ったふうに肩をすくめる。
「やっぱ、この姿じゃ無理か…仕方ねえな」
そして、しばしの沈黙の後。
「おい。もう一度だけ、目を上げてあたしを見ろ。そしたらもう、好きにしていいからよ」
有無を言わせぬ命令口調に、ついジョーは顔を上げた。刹那、その瞳が驚愕に見開かれる。
「これなら、そう突っ張ることもあるまい? 少しは、素直になれるだろ?」
立ったまま、下ろした手をほんの少し広げて。慈愛に満ちた菩薩さながらの姿でジョーを見下ろしていたのは…
たった今までの若い女からいっぺんに二十年以上も年を取った―姫だった。
(嘘だ―)
(こんなこと、ありえない―)
(みんな嘘だ…でなければ…夢…)
目の前に立つ女の姿はどう見ても三十代後半から四十代前半。だが、姫と自分はたった二つ違いではなかったか?
確かに自分はサイボーグ…外見はあの時とほとんど変わりないとはいえ、改造されてからの年月は決して短くはない。
だが…それを計算に入れてさえ、姫がこんな年齢になっているはずはなかった。
頭を抱えていた腕からもいつしか力が抜け、その場に膝立ちになったまま呆然となっているジョーに、姫の―これだけは変わらぬ声が話しかける。
「言っただろ。『あたしは、あんたの母親になる』。…子供のためなら、年を取ることなんて何でもねえよ。もしこれでも足りなきゃ、もっとたくさん、年を取る。オバサンになろうがババアになろうが、構うもんか」
自分を見つめる漆黒の瞳。この…眼差しは…
「ん…? やっぱ、まだ足りねえか…?」
そう言ってふわりと自分自身を抱きしめ、何かを念じるように姫は静かに目を伏せる。咄嗟にジョーは、弾かれたように姫に飛びつき、その細い身体をしっかりと抱きしめていた。
「やめてくれ…! もういい…! もう、充分だから…お願いだから…そのままのあんたでいてくれ…」
うっすらと涙さえ浮かべて懇願するジョーに、姫の切れ長の瞳がにっこりと笑いかけた。
「やっと、あたしの顔を見たね。…ったく、いくつになっても世話焼かせやがって…ホントに、手のかかるガキだぜ、おめーはよ」
言いながら、そっと自分を抱きしめ返してくれた柔らかい腕。頬にかかる、甘い髪の香り。温かい胸。
覚えがあった。
遠い昔、遥かな時の彼方で確かに一度…いや、何度も…抱いてもらった記憶がある。
世界中が、幸福の光にきらめいていた時代(とき)。
(あらゆるものが、「生まれてきてくれて、ありがとう」と僕にささやいていた…)
中でも、一番優しい言葉で…一番たくさん、僕に語りかけてくれた人…
運命に引き裂かれたその後も、ずっと…探してきた。憧れて…想い焦がれていた。
金色の髪の、あの少女への想いと同じ深さでひたすらに…求め続けていたただ一人の人。
目の前のこの女が、その人であるという確証は何もなかったけれど。
でも、それでもいいと思った。
同じだから。
自分を見つめる慈愛に満ちた瞳も、自分を抱きしめる柔らかい腕も、温かい胸も―
あの時と、全く同じだったから―。
「母さん…!」
自分の唇がほとばしるようにそう叫んだことさえ、ジョーは気づいては、いなかった。
「俺は…あんたの言葉を守らなかった…あんたには、いろんなことを教えてもらったのに、あのときからずっと、それに逆らい続けて…ロクでもない奴らとやり合って、傷つけて、ハコ送りになって…挙句の果てが、サイボーグ…機械仕掛けの人形だ…戦いばかりに明け暮れて…人を殺しさえした。敵とはいえ、何人も…。俺の手は、血で真っ赤に染まってる…俺はもう、あんたに愛してもらえるような人間じゃ…なくなっちまった…」
言葉とは裏腹に、ジョーの手は一層の力を込めて姫の腕にしがみつく。サイボーグである彼に、渾身の力ですがりつかれるなど、生身の女にとっては耐えがたい苦痛であるはず。しかし姫の微笑みは少しも変わることはなく―
「莫迦だな…そんなこと、もう気にしなくていいんだよ。あたしが知ってるお前はいつだって、真っ直ぐで、一途で、優しい奴だったじゃないか。お前が自分から望んでそんなことするはずない。お前がいつまでも自分を責め続ける理由なんて、この世のどこにも、ないんだよ…」
「違う…違うんだ…っ!」
姫の胸の中で、なおも首を振り続けるジョー。
「俺は…あんたに隠してた…自分が、孤児だってこと…。お嬢様のあんたにそんなこと知られたら、どう思われるかそれが…不安で…。そればかりじゃない…本当は俺…あんたを憎んでた。何でも持ってるお姫様のあんたが羨ましくて、妬ましくて…そのくせ、ずっと傍にいてほしくて…」
ジョーの足が力なく崩れ、彼は再びそこに膝をついた。姫もまたわずかに身をかがめ、そっと、その背中をなでる。
「あのときあんたを殴ったのも、今考えてみれば俺自身の所為だった…怖かったんだ…急に大人になっちまったあんたが、俺から離れて行っちまうようで…怖くて怖くて…そんな思いをさせるあんたに、腹がたった…逆恨みだ。あんたが大人になっていくのは当たり前のことなのに、俺はそれが許せなかった…。今だってそうだ。せっかく…ダチが…『本当の仲間』ができたっていうのに、俺はいつも、みんなが離れていくことを恐れてる。いつか…たった一人置いてきぼりにされるんじゃないかって、不安で気が狂いそうで…だからどうしても、最後の最後で心を…開けなくて…みんなに対して、壁を作ってるってのが自分でもよくわかる…。我儘で、卑怯で、臆病で…俺は…あんたが思ってくれてるような人間じゃないよ…これっぽっちも…」
そのまま、声もなく涙を流し続けるジョー。いつしか姫の胸元はしとどに濡れ、しがみつかれた腕は赤く腫れ上がっていた。だが、それでも姫は柔らかく、ジョーの体を抱き続ける。
「そうか…辛かったんだね。…そんなにも…淋しかったんだね…」
思いがけない言葉に、ジョーがはっと姫を見上げる。文字通り、彼の母としてふさわしい年齢になってもなお、日本人形のように美しいその顔が、ふんわりとほころんだ。
「それでも…いいよ。お前があたしを憎んでいようが、殺そうが…あたしは、お前を許す。例えその手で世界を滅ぼすような怪物になったとしても…あたしだけは、何があっても、お前を…許してあげる」
「あ…」
もう、これ以上の言葉は要らなかった。膝をつき、たおやかな腕にすがりつきながらひたすらに涙を流し続ける「子」を、身を屈め、痛々しく腫れ上がった腕で優しく抱きしめる「母」。この不思議な母子像は、それから長い間―窓から差し込む陽の光が音もなく移ろい、輝きを弱め…やがて赤々と照り映える残照となり、その姿を黒々としたシルエットに変えてもなお、微動だにせず―ずっとそこに、立ち続けていた。
藤蔭医師が全ての仕事を終え、ギルモア邸を辞したのは、宵闇にそろそろ星が輝きだす頃だった。家のすぐそばに停めておいた愛車に向かって、足早に戻ろうとしていたその歩みが、ふと止まる。車の脇に、一人ぽつんと佇む人影を認めたからである。
「石原君…!」
人影は、石原医師だった。
「無事、作戦完了ですね。よかった。先輩一人で三日間もかかりきりだったから、俺、何だか心配になっちゃって」
「何、心配なんかすることあるのよ。あそこのみんなはみんなすごくいい人たちばかりだから、って褒めちぎってたのは一体誰?」
「いえ、そんなんじゃなくて…俺、先輩の治療方針聞いてたから…」
石原医師の声が、不意に小さくなる。
「もし先輩が、島村クンのお母さんになったままだったらどうしようかと…」
消え入りそうなその言葉が終る前に、藤蔭医師はぷっと吹き出した。
「やだぁ! 貴方何考えてるのよ。あんな擬似記憶、いつまでもそのままにしておけるわけないじゃない。そんなことしたらあの坊や、今度は別の方で混乱しちゃうわ。大事なのは『許された』っていう感覚だけだからね。余計なものはみんなまとめて深層意識の一番奥に突っ込んできちゃった。多分もう、一生思い出さないでしょうよ」
ぽんぽん言いまくられてたじたじになりつつも、石原医師がほっとしたような顔になる。藤蔭医師の表情も、ふと和らいで。
「でも、心配してくれたのは嬉しいわ。ありがとうね」
「い、いや、俺は別に…」
照れたように頭をかく石原医師の頬がほんの少し赤く染まっていたことは、周囲の暗さも手伝って藤蔭医師には気づかれずに済んだようだ。
「じゃあほら、乗って。送ってってあげるわよ。貴方、その様子じゃ車持って来てないんでしょ」
「ええ!? そんな、いいっスよ! 俺、勝手に出張ってきただけだし…」
「何言ってんの。こんな暗くなってちゃ危ないじゃない。お姐さんの言うことは、ちゃんと聞くもんよ!」
運転席に半分身体を入れながら、藤蔭医師の声が飛ぶ。石原医師はかすかに口を尖らせ、不満そうに小さく呟いた。
「…ちぇっ。いつまでたっても子ども扱いだな、俺。もうそろそろ、いい加減に…」
「ほうら! 何してんの!」
それでも再度促されたときには何故かいそいそと車に乗り込んで。
程なく、エンジンがかかる。ごく当たり前の、平凡な男女―しかし、誰にも知られぬままに、この世界を守るかけがえのない戦士たちの心をその手によって癒し、救うという偉業を見事に成し遂げた彼らを、隠れた英雄のうちに数えてはいけないだろうか―を乗せ、ゆるゆると動き出した淡いパープルのセダンは、次の瞬間一気に加速した。
眼下に広がるのは、夜空にまたたく星々を映すかのように輝く地上の星。彼らと同じ、平凡で当たり前の人々がささやかな幸せとともに暮らす街―。
天にも地にも満ち溢れる、名もなき小さな星の粒。真っ赤なテールライトが長い尾を引く新たな流星となって、あっという間にその中に溶け込んでいった。