第十章 夢の行方
時間が、妙にゆっくりと過ぎていくような気がした。
あれから半日。フランソワーズに、目立った変化はない。藤蔭医師の診断は、果たして正しかったのだろうか? ジョーは首をかしげる。水の気だの、水の性だの…どう考えても医学的な理論じゃない。正直に言わせてもらえば、非科学的極まりないたわごとだと思う。
だが、藤蔭医師の言葉でフランソワーズにわずかながら変化が現れたのは確かだった。その水色の瞳からは狂おしい命がけの光が消え、さしもの自分さえ痛みすら覚えるほどきつくしがみついていた指もいつしかほどけた。今はこうして互いの手を握り合っているだけで充分、満足しているように見える。
だが、何も話さず、身動き一つせず。ひたと自分を見つめたまま、この手をしっかりと握っている状態には変わりがない。
と―。かすかな音が、いや、声が聞こえた気がした。
「フランソワーズ?」
その唇が、わずかに動いている。ジョーは彼女を驚かせないよう精一杯気をつけながら、そこに耳を近づける。
(歌…?)
それも、この旋律は…
「フランソワーズ…その歌、好きなの? じゃあ、かけてみようか。僕、そのテープ、持ってるよ」
刹那、フランソワーズの瞳が大きく見開かれた。
ジョーがかけてくれたのは、間違いなくあの歌―昨夜藤蔭医師が吹雪の中で歌っていた曲だった。日本語の美しさを存分に知り尽くした歌詞と切ない旋律で、デビュー以来三十年近くトップアーティストの座を守っているベテラン女性歌手のアルバムの中の一曲。…亡くした恋人を、雪の中で呼び続ける女の歌。
オリジナルの、それもプロが歌うその歌は、テープとはいえ昨夜のそれとは段違いの迫力があった。何よりも、言葉の一つ一つ、伴奏の一音一音がはっきりと耳に、心に響いてくる。
だが―それでも、あの幻は二度とフランソワーズの目の前には現れなかった。
水色の瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「フランソワーズ!」
愛しい人が、心配そうに叫ぶ。だが、これは今までの涙とは違う。恐怖と不安、そして絶望から搾り出された冷たい涙ではなく、深い安堵と、今こうして目の前にいる少年への想いがあらためて溢れただけの、温かい涙。
「…ごめんなさい、ジョー。心配させて…でも、もう大丈夫よ。私…わかったから。昨日の貴方は幻だって…貴方はいつでも、私の傍で…私を守っていてくれるって…わかったから」
泣き笑いの微笑とともに、フランソワーズはゆったりとジョーの胸に頭を持たせかけ、その温もりを確かめながらもう一度しっかりと彼の手を握り締め…やがて静かにその手を離した。
そして。長かった一日が終わり、ようやくフランソワーズのナイト(番犬?)役から解放されたとき、ジョーにはもう何を考える気力も残ってはいなかった。
正気を取り戻してもなお、いつまたあの状態に戻ってしまうかとどれほど心配し、神経をすり減らしたことか。ほぼ丸一日を二人きりで過ごせたことなど初めてだったから、嬉しくなかったとは言わないが、できればもう、二度とあんな思いはしたくない。それでも今は、フランソワーズがいつもの彼女に戻ってくれたことを信じ、それでよしとするしかないのかもしれない。
そんな状態にもかかわらず、今夜は一応きちんとパジャマに着替えただけ、マシだといえるだろうか。
昨夜と同じく倒れるようにベッドにもぐりこみ、程なく規則正しい寝息をたて始めたジョーのもとへ、昨夜途切れた夢の続きがまた、密やかに忍び寄ろうとしていた。
真夏の夜の繁華街の喧騒。酔っ払いのだみ声や女たちの嬌声が響く中を、ジョーはあてもなくさまよっていた。気分は最悪。ついでに、右の二の腕が鈍く痛む。舌打ちとともに視線を落とせば、そこには真っ白な包帯が巻かれていて。
高校三年になってもなお、ジョーの周囲は物騒な雰囲気に取り囲まれていた。高三の夏には引退―そんなことを言っていたのは誰だったか。どうせ、いざとなればこんな世界とはすっぱり縁を切って、逃げ込む場所がある奴に違いない―
(だから、言ったのに)
一日前までは恋人だと思っていた、そして数時間前には彼を激しくなじり、泣きながら走り去って行った少女の顔を思い浮かべ、ジョーは吐き捨てるように呟く。
最初に告白してきたのは彼女の方だった。クラスで一番の美人、と評判の女子生徒。心が動かなかったといえば嘘になるが、今のジョーにはそんな想いなど到底受け入れられるものではなかった。自分とつき合ったりしたら、必ず彼女の身にも危険が及ぶ。かといって彼女のために今更真面目な学生になれるほど、おのれの心も、また状況も単純ではない。そんな事情を全て話し、背を向けて立ち去ろうとしたとき―
泣かれてしまったのだ。
それでもいいと。覚悟していると。後悔なんか、しないと。
その言葉をつい信じてしまったことが、今となっては悔やまれる。
しばらくの間は楽しかった。校舎の裏で、こっそりと二人だけで過ごしたり、誰もいない早朝の屋上でおずおずと抱き合ったりするだけの、「恋人ごっこ」。休みの日には、彼女は薄化粧をしてジョーの前に現れた。淡い色のマニキュアを塗った指を彼の腕に絡め、いい匂いのする唇でとりとめのないことを話し続ける。それを聞いているのが、嬉しかった。見ているのが、幸せだった。
しかし。
恐れていたことが、とうとう起こった。今日の放課後、いつも通りに二人だけが知っている秘密の喫茶店で待ち合わせ、ささやかなデートを終えた帰り道。夕暮れの、人気のない路地で突然襲い掛かってきたのは、一ヶ月ほど前ジョーが散々痛めつけてやったグループの残党。彼女を連れていては乱闘に持ち込むことなどできはしない。ジョーは懸命に彼女をかばい、とにかくその場を逃げ出した。
走って、走って。息が切れ、立っていられなくなるまで走って。ようやく逃げおおせたと思ったとき、彼女は突然、泣き出した。
(どうして…? どうして私をこんな怖い目に合わせるの!?)
(島村君なら、守ってくれると思ってたのに)
(どんな奴だって、あっという間にやっつけてくれるはずじゃなかったの!?)
ジョーは、無言のまま背を向けた。説得や弁解すら、する気が起きなかった。
少女が泣きながら走り去って行った後、ジョーは彼女をかばった自分の右腕に深い切り傷を負っていたことに初めて気がついた。
「痛てっ! このガキ、何すんだよ!」
しわがれた声に、ジョーは我に返る。目の前には数人の目つきの悪い男たちが立ちはだかっていた。そのうちの一人は大袈裟に肩を押さえている。どうやら、ぼんやりと歩いているうちにぶつかってしまったらしい。
「いい度胸だよなぁ、俺らにぶつかっといて、詫びの一つも入れずにボーっと突っ立ってるなんてよ」
「こういうガキにはちょいとお灸を据えてやらなきゃな」
「そうともよ。年長者の義務ってもんだぜ」
殴りかかってきた拳を、ジョーは首だけわずかに傾けて避けた。かっとなった相手が、今度は全身でぶつかってくる。だがこれも、片足を一歩引いて体をひょい、と開いただけで自分から勝手にどこかの雑居ビルの壁に激突してくれた。
「この…ぶっ殺してやる!」
壁にぶつかった男は額から血を流していた。自業自得としか言いようがないが、正論が通用する相手ではない。男の片腕が、傍らに積み上げてあったビール瓶のケースに伸びた。入っていた空き瓶の一本をつかみ、地面に叩きつける。割れた茶色のガラス瓶が、いくつもの鋭い切っ先を持った凶器に早変わりする。残りの連中は、ジョーの周囲をしっかりと固めていた。逃げ場はない。
雄叫びとともに、ビール瓶男が突っ込んできた。またしてもジョーは必用最小限の動きでその攻撃を避ける。だが、いい加減面倒臭くもなっていた。
(俺は、一体いつまでこんなことを続けていかなければならないんだろう)
(どこまで行ってもたった一人で。来る日も来る日も乱闘ばかりに明け暮れて)
(俺には、逃げ込む場所もない…守るものも、守ってくれるものもいない…)
別に今更それをどうこう言う気もなかったが、一瞬。この、紙クズ以下の人生そのものが面倒臭くてたまらなくなったのもまた、事実だった。
(ここでさっさとケリをつけちまうのも悪くないな)
ジョーは、動くことをやめた。茶色のガラスの鋭い切っ先が自分の胸に迫ってくるのを、それと同じ色をした瞳が無感動に見つめている。そして、その凶器が少年の身体を血の色に染めようとした、まさにそのとき。
遠巻きに見物していた野次馬の中から突然飛び出した白い塊が、ビール瓶男に体当たりを食らわせた。男は吹っ飛び、ジョーの逃げ道を塞いでいた仲間の一人を巻き添えにして無様にもアスファルトに叩きつけられる。
唖然とする間もなく、ジョーの左手を誰かがつかんだ。
「早く! 逃げるんだよ、こういうときはっ!」
怒声とともに凄まじい勢いで引っ張られ、我知らずジョーは走り出していた。繁華街を抜け、大通りを過ぎ、小さな路地を抜けていくうちに、自分を引っ張っていくのがまだ若い女だと気づく。背中の半ばまでかかる、絹糸のような漆黒の髪に見覚えがあった。
「…姫!」
どこだかわからないビルの建築現場まで来て、ようやく女は足を止めた。
「よう。久しぶりだな」
深夜の工事現場に人の気配はなく、聳え立つ鉄骨やそこかしこに停めてあるクレーン車のシルエットが不気味なオブジェのように立ち並んでいるだけ。だが、仄かな街灯の明かりの中、不敵に微笑みかけているのは紛れもなくあの少女―姫だった。
「おめーよぉ、最近ようやくいっちょ前になったと思ってたら…いい年こいて何であんなバカやるんだよ」
言いながら、姫は手にしたバッグから煙草を取り出し、火をつける。
「喧嘩するなら相手選べよな。あいつらの目、見たか? 絶対、何かクスリやってるぜ。ヘロかコカか…ま、あの年でシンナーってことはねえだろうけどよ。ヤク中と喧嘩したって、ロクなことになんねえぞ。やり合うんなら、相手を痛めつける程度もてめえの引き際もわきまえてる、本物だけを相手にしろ…って、今更こんなこと言わせんな。…ったく、とうに隠居した年寄りに、いつまで経っても世話かけやがってよぉ」
以前と同じ結末。同じ説教。だが―ジョーは気づいていた。
「化粧…してるのか?」
―彼女が、以前の「姫」ではなくなってしまったことに。
「ん…? まあな。何てったって大学生だしよ。…引退しちまえば、あたしだって一般ピープルなんだから、べつにおかしくなかろ?」
彼女が着ているのはもう、紺色のブレザーじゃない。
淡いピンクのキャミソールと白いスリムパンツ。白いデニムのジャケット。
眉をくっきりと描き、華やかな色のシャドウと口紅に彩られた「女」の顔。
仄かに立ち上る香水の香り。
逃げ場のある奴。
守るべきものも、守ってくれるものも、多分…溢れんばかりに持っている「お姫様」。
その姿が、あの少女と重なる。と同時に、不意に激しい怒りが突き上げてきて、ジョーはいきなり、姫の両手首を押さえ込んだ。煙草が、細い指を離れて地面に落ちる。
「な…!」
問いかける隙さえも与えず、ジョーの唇が姫の唇を塞いだ。
腕の中で、姫がもがく。意外と華奢なその身体に嗜虐的な欲望がわきあがり、ジョーはそのまま、姫に重なる格好で彼女の身体を大地に押さえつけた。
「てっ…てめえ、何しやがる!」
「うるせえ! お前だってどうせ、そうやって綺麗に化粧して、男誘ってるんだろう! いずれ、適当に金持ちのエリート捕まえて、若奥様にでもなるつもりでよ!」
「何だとぉっ…!?」
姫の目が、ぎらりと光った。と同時に、闇を切り裂いた銀色の軌跡。
「痛ゥッ…!」
頬を押さえたジョーの指の隙間から、ゆっくりと紅いものが染み出してくる。
「何やらかすんだよ、いきなり…あーあ。結構ざっくりいっちまったな。でももう、十円玉挟んだりしてねえから、綺麗に治るよ。ちょっくら時間はかかるかもしれねえけどさ」
荒い息をつきながら、それでも姫は恐れ気なく再びジョーに近づいてきた。
「失恋でもしてヤケになったか? …お前もそろそろ『お年頃』だしな。ま、誰でも一度は、愛だの恋だのがこの世で一番大切だ、なんて思うもんさ。でもよ、力づくで女自由にしようなんて真似してるうちはまだまだガキだぜ。そーゆーこと考えるには、百年早い」
唇の端だけで薄く笑い、頬を押さえているジョーの手にその白い指を重ねて。
「あたしは別に、男なんか誘ってるつもりはねえよ。…もちろん、お前のこともな」
真っ直ぐに自分を見つめてくる切れ長の黒い瞳。ジョーはようやく、今、自分がとんでもないことをしそうになったことに気づいた。
「ごめん…」
ぽつりとそれだけ言うのが精一杯だった。顔がひどく熱いのは、カミソリにやられた傷の所為だけではあるまい。姫の表情が、ふと優しくなった。
「あーあ。まるで、どえらく手のかかる弟か、子供でも持った気分だよ。…そうだ」
何を思いついたのか、面白そうに笑って。
「も、愛だの恋だの難しいことなんか考えてないで、お前、いっそあたしの子供になっちまえよ。あたしはお前の母親になる。二歳違いの親子ってのも面白いじゃねえか」
「何だと…?」
おそらく姫は、軽い冗談のつもりで言ったのだろう。だがその言葉が、静まりかけていたジョーの怒りに再び火をつけた。
「ふざけるんじゃねえっ!!」
理性も自制心も、そして仄かに感じていた姫への「想い」さえ。全てが燃え狂う衝動の前に吹き飛び、ジョーは無傷の左手で、思い切り姫を殴りつけていた。そしてそのまま、ぱっと踵を返して闇の中に走り去る。
(畜生…畜生っ! どうしてあいつ、あんな言葉をいとも簡単に口に出しやがるんだ…)
姫を殴りつけた左の拳がずきずきと痛む。いつしか右腕の傷よりも激しくうずき始めたその正体が、罪悪感という、心に刺さった鋭い棘であることすら気づかないままに。
(母親…それが俺にとってどんな意味を持つのか、これっぽっちも知りやしないで…)
一筋の光も見えない、漆黒の闇。姫の瞳と同じ色の中をひたすら走り続けるジョーの瞳からは、いつしか大粒の涙が流れ出していた。
「よっしゃぁ!」
ギルモア邸から数キロ離れた、とある瀟洒なホテルの一室。またも床に座り込み、瞑想にでもふけっていたふうだった藤蔭医師が突然眼を開き、両の拳を握りしめて力強く叫んだ。
「やっと…お膳立てが整ったわ…本当にまあ、苦労させてくれちゃって」
幾分ふらつく足取りで立ち上がり、ベッドに座り込んだかと思うと、サイドテーブルに置かれた煙草を一本、取り出して火をつける。
「あ…輪っかができた」
細めた唇の先から煙を吐き出すその瞳が、一瞬子供のように嬉しそうな光を浮かべた。