第一章 張々湖
いつもはギルモア博士が座っている椅子に、今日はほっそりと華奢な長身の美女―藤蔭医師が腰を下ろしているのは奇妙な眺めであった。
「張々湖さんですね。どうぞ、お掛け下さい」
スーツの上着を脱いで白衣をはおった藤蔭医師は、自分の前にある丸椅子を優雅な手つきで指し示し、取り上げたカルテに目を走らせる。
「検査結果はどれも正常ですが、かなり危険値に近いものがいくつかあるのが気になります。確か、普段は中華料理店を経営していらっしゃいますよね。お仕事の方でご無理をなさったり、していませんか?」
図星を指されてぎくりとする張々湖。確かに、ここのところ店の方が忙しくて少々疲れ気味なのは事実だ。だが…
「は、はあ…それは…でも、何てったってわてはサイボーグやから、ちょっとくらいの無理は平気…」
「ご自分の身体を過信しないで下さい!」
藤蔭医師が、張々湖の言葉を鋭く遮った。
「いいですか。皆さんの身体、それも内臓は、貴方方ご自身が思っているよりはるかに生身に近いんですよ。いろいろな人工部品でプロテクトされているから傍目には機械に見えるだけです! 大体、サイボーグというのは…」
柳眉を逆立て、声を荒げる藤蔭医師。だが、その表情は心底心配そうで…どこかで、見たことがある―張々湖は、ぼんやりとそう思った。
「…ですから、機械部品のサポートがあるにもかかわらず危険値に近いというのは、普通の人間なら即入院と言ってもいいくらいなんです! お仕事とご自分の身体と、どちらが大切なんですか!」
悲痛とさえ言えるその声は、つい昨日聞いた声にあまりにも似ていた。
(店長! もういい加減、無理はやめて下さい!)
(俺たちなら、今のままで充分ですから…どうしてもって言うんなら、手伝わせて下さい! お願いしますっ!)
陳と羅。繁盛する一方の店に人手が足りなくなって、雇い入れた若者たち。陳は料理に、羅は事務処理に、それぞれ卓越した才能を示してくれている。しかも、張々湖のことを実の父親のように慕ってくれているのが何より嬉しい。でも、張々湖の応えは。
(仕事はわての趣味アルからネェ。おまはんたちをつき合わせるわけにはいかないアル。さ、もう十一時過ぎたヨ。早く帰るアルヨロシ。陳、おまはんこないだ結婚したばかりアルやろ。新婚の嫁はん、寂しがって泣いてるヨ。羅、おまはんちじゃお母はんが心配してるんじゃないかネ。さ、帰った帰った。わてもすぐに帰るよってにな)
何か言いたそうな二人を無理矢理外に押し出して、一人厨房で仕込みに入って…全てが終わったのは、そろそろ午前二時になろうかという時刻だった。
(あ…ああ、いかんアル。ちょっと、ボンヤリしちまったネ)
何故だか、やけに眠い。深夜までの仕込みは近頃当たり前になっていて、ついこの間などは一睡もしないまま、二昼夜ぶっ通しで店に立ったこともある。だが、そのときでさえこんなに眠気がさすことはなかったのに。
気を取り直して、目の前の藤蔭医師を見る。しかし、その顔が再びぼやけて…
切れ長の大きな目。白い肌。漆黒の髪。
(ああ…この先生、『西王母』のママに似てるネ。どこがどうちゅうワケじゃ、ないアルけど…)
そんなことを考えているうちに、張々湖は再び夢とも現ともつかない世界に引き込まれていった。
昨夜、店のすぐ近くの中国風ナイトパブ、『西王母』のママが訪ねてきたのは、何時頃だったろう?
「ちょっと、大人。あんたんちの若いの、うちでずいぶん荒れてたわよ」
もう五十は過ぎているというのにまだまだ美しく艶やかな在日中国人二世。「あたしゃ、祖国ってモンを見たことないのよ」と笑って言い切るくせに、その祖国で生まれ育った誰よりも中国服がぴったりとよく似合う彼女はため息交じりで厨房に置いてあった椅子に腰を下ろした。
「え…もしかして、あんたはんの店に何か迷惑かけたアルか?」
仕込みの腕を止めて振り返った張々湖に、ママは笑って首を振る。
「迷惑、ってほどじゃないけど、飲んでるうちに二人とも泣き出してさぁ。『大人が心配だ、何でも一人で背負い込もうとする』って同じ台詞の繰り返し。うちの娘たちもちょいと、もてあまし気味だったわネェ」
「そりゃ…大変だったアルな。で、陳と羅は?」
「タクシー呼んで無理矢理押し込んだわよ。こっちだって商売だからね。そういうのには慣れてるし、どうせあの子たちの家ならワンメーターで着くんでしょ?」
「そうだったアルか…すまなかったネ。明日、二人にはよく言っとくヨ…」
頭を下げる張々湖を見てけらけらと笑ったママの顔が、ふと真面目になる。
「でもさ、あの子たちの気持ちもわかる気がする。ねえ大人、あんた、最近ちょっと無理してない?」
張々湖が、ぐっと言葉に詰まる。
「あんたの店、ここんとこ毎週のように何とかセールだの何とかフェアだのやってるでしょ。あたしら客からすれば、おかげで美味しい料理だの点心だのを安く食べられるんだから文句言う筋合いじゃないけど、同じ経営者として言わせてもらえば、ちょっとやりすぎって気がするのよね。仕入れだの仕込みだの、結構な手間でしょうに。しかもそれをほとんど自分一人でやってるって聞いちゃあねぇ。ねえ大人、あんた、何でそんなにがむしゃらに儲けようとするのさ」
それでもなお、張々湖は言い返す言葉を見つけられないままでいた。
「もしかして…大事な、お仲間たちの為? サイボーグのさ」
それは、ありえない言葉。自分がサイボーグであることなど、陳にも羅にも言っていない。まして、このママになど決して…なのに何故か、このときにはそれを不思議と思う気持ちは湧いてこなくて。
「そ…そうアルよ。いけないアルか? わてら…わてらの仲間はそりゃ、自分ひとりの食い扶持くらい、ちゃんと自分で稼いでるアル。でも、それだけじゃ足りないのヨ! ドルフィン号や研究所の機械の維持費、それに、わてらの身体を正常に保つだけのパーツ代、用具代…わてらが生きていくためには、とにかく莫大な費用がかかるアル! でもって今、そののほとんどは、ギルモア博士とイワンが開発したいろいろな機械の特許料でまかなっているのヨ。そりゃ、みんなだってできる限りのことはしてくれてはるけど…博士もイワンもあんまりみんなに負担をかけたくない言うて、少しでもたくさんの特許をとるために四苦八苦してるネ。だけど、開発した機械のほとんどはわてらの為の兵器だから…一般的な技術として流通させられるもの、隠しておかなきゃいけないもの…その取捨選択はえらく難しいのヨ…下手すりゃ丸ごと作り直さなけりゃならないこともしょっちゅうネ。通常の仕事に加えてそんなことまでやってたら、とんでもない手間ヨ。そんな苦労…わてはこれ以上二人にさせたくないんアル」
「だからって、あんた一人が頑張ることないでしょうに。全員揃って、もっと儲かる仕事に転職すりゃいいじゃないの」
「そんなこと、させられないアル!」
張々湖は叫んだ。
「わての仲間が働いているのは、必ずしも金のためだけじゃないネ。…例えば、グレートやフランソワーズは芸術家アル。金なんかどうでも、自分が演じたいから演じる、踊りたいから踊る…だからこそ、みんなを感動させる舞台を作り上げることができるし、それが彼らの喜びでもあるのヨ! ピュンマは自分の国の復興の為に夜も昼もなく走り回ってるアル! 金のことなんかまるっきり考えてないヨ! ジェロニモだって、アルベルトだって、自分のいる場所で、自分が一番生きがいを感じる仕事を精一杯やってるネ。そんなみんなに、仕事を変えてもっと金稼げ、なんて言えるわけないやろが!」
「だったら、あの若いボーヤたちのお尻をもっと叩いてやれば? 稼ぎ頭なんでしょ、二人とも」
からかうように、ママが言った。張々湖は、飛び上がる。
「ジョーやジェットになんか、余計言えないアル!」
そして、さも恐ろしそうに身を震わせて。
「確かに、あの二人はレーサーヨ。優勝賞金は、こんな店の売り上げなんか足元にも及ばないネ。でも、いつでも優勝できるとは限らないやろ? 着外になることもあれば、リタイヤすることだってあるネ。それでもあの子たちが走るのは、ただ走るのが楽しいから、車が好きだからアル! だから、無茶はしても無理は絶対しない…でも、金の為に走ろうとすれば絶対無理するに決まってるアル。そんで、万が一事故でも起こしたら…。いいか、ママ! レース中のマシンは時速三百キロヨ! そんなモンがどっかにぶつかったら乗ってる人間はどうなるネ! そりゃ…あの子たちはサイボーグやし、事故に遭っても全くの無傷で助かったこともあるヨ。でも、だからといってこれからも絶対に大丈夫なんて、誰に言えるアルか! そんな…命まで賭けて金を稼げなんて、わて、言えないアル…絶対に、絶対に言えないのことヨ!」
いつの間にか、ママの襟元を吊るし上げんばかりの勢いでまくし立てていた張々湖がはっと我に返り、しょんぼりとうつむく。
「でも…わては違うのヨ。安くていい食材を探しにあちこち歩いて、農家や港の爺ちゃん婆ちゃん…おっちゃんやおばちゃんとあれこれ交渉するのが楽しいアル。手に入れた食材を美味い料理に調理するのが面白いアル。わての料理を食べたお客さんが、幸せそうな顔になるのが嬉しいアル。商売してると、わて自身も幸せになれるのヨ」
そこで、きっと顔を上げて。
「そんなふうに、自分も幸せになりながら確実に金を稼げるのはわてだけなんアル! だから…だからわては、少しでも多く儲けて、みんなの力になりたいんヨ!」
ママがほんの少し、目を細めた。そこに浮かんだ非難の光に気づいた張々湖は、慌てて言葉を継ぐ。
「もちろん、陳と羅もわてには同じくらい大切ヨ。この店の売り上げが増えれば、あの子たちの給料ももっと上げてやることができるやろ? でも、だからといって連日連夜、こんな遅くまでこき使うなんてできないネ…サイボーグであるわてだからこそ、多少の無理もできるけど、もしも生身の人間に同じことさせたりしたら…」
だが、ママは表情を変えずにふん、と鼻を鳴らした。
「だから何でも一人でやるってわけ。ご立派だこと。でもいくらサイボーグだからって、あんたロボットじゃないんでしょ!? 人間でしょ!? 一人で無理ばっかして、もしも身体を壊すようなことがあったら、大事なみんなはどんな顔になるでしょうねェ」
ママがそう言い切った刹那―世界が消えた。気がつけば、闇の中に一人。
「マ…ママ? どこに行ったアル?」
問いかけたところで、応えはない。そればかりか、たった今まで自分がいたはずの厨房さえ、跡形もなく消えている。あるのはただ、押し迫る闇、闇、闇…。
張々湖の表情がきっと引き締まり、息をひそめて周囲の気配を探る。まがりなりにもサイボーグ006。この暗闇からどんな化け物が襲いかかってきたところで、びくとも怯むものではない。
が―。
いかに神経を研ぎ澄ませても、感じ取れるのはただの虚無のみ。何も、ない。誰も…いない。
その事実に気づいたとき、初めて張々湖の全身がぞっと総毛だった。
(一体…ここはどこなんアル? どうしてわては、たった一人でこんなところにいなきゃならないアルね!)
絶対的な孤独。それは人間にとって、どんな怪物よりも恐ろしいものであるかもしれない。嫌だ―こんな暗闇の中、たった一人で―いや、仮にここが光満ち溢れる天国の花園そのものであったとしても、一人ぼっちなんて、絶対に嫌だ―!
恐怖と絶望に叫び出しそうになったとき、遥か彼方で夜光虫のようにぼんやりと光るものがあるのに気づいた。
(何の…灯りアル?)
用心も警戒も忘れて張々湖は全力で走り出す。もしあそこに、誰かがいるとしたら。…仲間でなくてもいい。知らない人間でもいい。犬だって猫だって、いっそ、自分にはまるで歯の立たない、強大で邪悪な敵だっていい。とにかく、自分以外の存在を―喜びでも怒りでも憎しみでも、何でもいいから「心」を交し合える相手の息吹を感じたくて、張々湖は汗だくになりながらただ、走り続けた。
そして、ようやくそこに―弱々しいながらも確かに明るい、青白い光が満ちる小さな広場らしいところにたどり着いたとき。まるでそれを待っていたかのように、周囲にぼんやりと浮かび上がるいくつかのかすかな影。目を凝らしてみれば、何とそれは張々湖が何よりも大切にしている仲間たちの―泣き顔。
「ど…どうしたんアルか、みんな!」
グレート…イワン…ギルモア博士。フランソワーズ…ピュンマ…ジェロニモ…アルベルト。そして、ジョーとジェット。
みんなが、涙を一杯にたたえた瞳で真っ直ぐに自分を見つめている。
今度こそ、張々湖は絶叫した。
「やめて…やめてくれアル! お願いだからみんな、そんな悲しい顔しないで…わてはみんなの涙なんか、死んでも見たくないのコトヨ!」
最後に浮かび上がったのは、陳と羅の、やはり泣き顔。
(店長…もういい加減、無理はやめて下さい…)
(俺たちなら、今のままで十分ですから…俺たち…店長が、心配なんです…)
涙を浮かべた仲間たちの顔が、その言葉にいっせいにうなづく。
張々湖は再び、獣のような叫び声をあげた。
「ですからね、どうぞお身体の方も考えて…もし一つでも危険値が出たら、とんでもないことになりますよ」
明るい、真昼の光。しっとりと柔らかい、藤蔭医師の声。ここは、ギルモア博士の書斎。
(わては…夢を見ていたんアルか…?)
呆然と目の前の藤蔭医師を見上げた張々湖に、彼女はにっこりと微笑んだ。
「説明は、以上です。どうぞ、お大事に」
「…わてな、今週限りでもう、当分売り出しはやめようと思うんヨ」
数日後、張々湖飯店の厨房で、店主が独り言のようにつぶやいた。
「本当ですか!?」
隣で手伝っていた若者の顔が、ぱあっと輝く。店主はそれに鷹揚にうなづいて、
「だから、今週の土曜が当面の最終日ネ。でもってな、陳…前日の金曜は、悪いがちょっと遅くまで手伝って欲しいんアル。羅にも伝えてくるヨロシ。事務専門とはいえ、あの子だって材料刻むくらいはできるやろ」
「はいっ!」
大声で返事をして厨房を走り出ようとした陳に、張々湖はさらに声をかけた。
「それからな…おまはんたちの昇給、今度の四月まで待って欲しいネ。そのかわり、四月になったら定昇、ベア込みでうんと上げるつもりでいるアルから…」
振り向いたのは、泣きそうな笑顔だった。立ち止まって深々と頭を下げた陳が、今度こそ事務室に駆け込んでいく。
その姿を微笑んで見送った店主は、再び包丁を握り直した。
そろそろ正午。張々湖飯店が、一番忙しくなる時刻である。