紫の少女 3


「…と、いうわけなんだ」
 語り終えたグレートが、ちら、と博士とアルベルトを見やった。
 博士は、ははは…と力なく笑いながら意味もなくうなづいている。無理もない。出発前の大掃除でぼろ雑巾のように疲れ果てていたところへオーストラリアへの往復。でもって、やっと我が家へたどり着いたと思ったら、コレである。
(…お年寄りには、ちょっとインパクトが強すぎたかな)
 ピュンマがそっと、隣にいたジェロニモにささやいた。しかし、それ以上に気にかかるのは、アルベルトの方だ。
 説明が終わってからもずっと黙り込んだまま、怒るでも、いつもの皮肉を投げつけるでもない。こういうときのアルベルトは、妙に怖い。当然、「触らぬ死神に祟りなし」とばかりに他の連中も口をつぐんだままである。
「俺は…知らんぞ」
 刻々と増していく沈黙の重さに皆が息苦しさを感じ始めた頃、ようやくアルベルトがそれだけ言った。
「どういう意味アル、アルベルト? やっぱり、ジョーが目を覚ましたら怒るアルやろかネ?」
 恐る恐る、張々湖が訊く。
「ジョーの方はどうでもいい。堪忍袋の代わりにブラックホールを持って生まれたような奴なんだから、どうせいつも通りに笑って、それで終わりだ。だが、フランソワーズはまともな娘だからな」
「そんな、心配することないヨ。フランソワーズだってちゃんとわかってくれたネ。きっと、もう少しすれば何にもなかったような顔して部屋から出てきてくれるアルよ」
「俺は、『まともな人間』じゃなくて、『まともな娘』って言ったんだぜ」
「アルベルト…?」
「女心って奴がどれほど恐ろしいか、知らなきゃ知らないでかまわん。だが、俺は関わりあいになるのはごめんだ。この後何が起こっても、傍観者に徹することにさせてもらうからな」
 ひんやりと、冷たい空気が一同を襲う。ピュンマが再び、ジェロニモの耳に口を寄せた。
(博士は…非難させておいたほうがいいかもしれない…な)
 ジェロニモは黙ってただ、うなづいたのみであった。

 張々湖を追い払い、ドアを閉めたと同時に、涙がぽとりとカーペットに落ちた。
(どう…して?)
 さっきから、何度そう繰り返したかわからない。
(どうして? どうしてなの、ジョー…どうしてあんな、知らない人が、あなたのベッドで眠っているの?)
(帰ってきて、一番に駆けつけたのは貴方の部屋。だって貴方、つい昨日までずっと熱が続いて…とても苦しそうだったのよ。今朝だって、熱は下がったけど咳が治まらなくて。でも、それでも精一杯、いつもの笑顔を見せてくれて、「大丈夫だよ」って言ってくれたから出かけたのに。貴方のことが心配でこのところずっと家に閉じこもりっぱなしだった私には、気分転換が必要だろうって…だから笑ってくれたんだ、って思ってたから、貴方に一番に、「ただいま」って言いたかった。なのに…)
 ベッドにジョーの姿はなく、眠っていたのは長い髪の美少女。それを目にした途端、何がどうなっているのかもわからないまま、反射的にフランソワーズは悲鳴を上げて部屋を飛び出した。気がついたら自分の部屋で、声を殺してひたすら泣いていて。
 自分がどうして泣いているのかさえ、すぐにはわからなかった。でも、少しずつ落ち着いて、少し離れた場所―ジョーの部屋で、がやがやと話し合っているみんなの声が耳に届いて。
 何があったのか、確かめようと思ったのだ。少なくとも、あの時だけは。なのに、部屋を出て行こうとしたとき、みんなの声を掻き消すほど大きな、張大人の声がドアのすぐ向こうから聞こえて。
(だから…全然悪気はなかったんアル。元はといえば…ジョーだって、決して自分から望んだわけじゃないネ。どっちかいうたら完全に被害者ヨ。だまくらかされて、知らないうちにああなってたんやから…)
 うろたえたその声は切れ切れにしか聞こえなかった。でもそれも、仕方がない。たとえ常人の数十倍、いや、神に等しい聴力を持っていたとしても、聞き分けようとする意思がなければ何も聞こえないのと同じことだ。
 いつものフランソワーズなら、その聞き逃した情報を補う為、躊躇うことなく仲間の許に走っていったろう。
 だがそのとき彼女は、五日間つきっきりでジョーを看病していた、その直後だった。
 高い熱がいつまでも下がらず、苦しげに喘ぐ愛しい人の呼吸の音を聞きながら、どうして眠ることができよう。夜通し咳が続いたときにはずっと背中をさすり続けた。彼が眠るまでずっと手を握り続けていた夜もあった。そして、その合間をぬって他の仲間たちの為にざっとではあるが家中の掃除をし、洗濯物を片づけ―もちろんみんなは手伝ってくれた。だが、普段やり慣れていない連中がどんなに頑張っても、かえって邪魔になることも多く、結局張々湖の料理以外はその気持ちだけをありがたくいただくことにして―
 今、フランソワーズは身も心もくたくたに疲れ切っていたのである。
 過度の疲労は思考力を低下させ、判断力を鈍らせる。そこへもってきて張々湖のあの説明では、落ち着いて考えろというほうが無理であろう。
 かくして、理性のメルトダウン。
(「悪気はなかった」って「ジョーだって、決して自分から望んだわけじゃない」って…あの女の子が一方的にジョーを好きになったってこと? でも、それならジョーは絶対に断ってくれるはず。少し困った表情で、でも優しい目で「ごめんね」って…。ううん、必ずしもそうとは限らないわ。あの人の優しさって、ちょっと常識外れなところがあるもの。もし、目の前で泣かれでもしたら、それ以上強く出ることなんかできないに決まってる。そうよ…いつだってそうなのよ、あの人はっ!ヘレンのときも、タマラのときも、イシュキックのときもよっ)
続いて、妄想のオーバーフロー。
(きっとあの子だって、「どうしても、諦めきれない」とか何とか言って、泣き落としにかかったに違いないわ。またそれを、必死になって慰めちゃうのがジョーなのよ! で、「だまくらかされて、知らないうちに」って…。有り得る。ジョーならぜえええぇぇぇっっったいに有り得るわっ。でも、だからってどうしていきなりベッドなのっ! あたしには…あたしにはいつまでたっても子供のキスしかしてくれないくせに! それだって、この数日は「風邪がうつるから」って一度もなしじゃない! そんなのって、あんまりよ。…もしかしてジョー、あたしよりあの子の方がいいっていうの?)
出ました、論理のスピンターン。
(でもそれなら、どうしてジョーがあそこにいなかったのかしら。もしかして、あの子が目を覚ましたときの為に飲み物でも買いに行った…? まだ具合の悪い、あんな体で…なのにあの子は、何も知らずにのうのうと眠り続けたまま…)
ついにやったぜ、女心のラージヒル、K点越え。
(許さない! そんなの、このあたしが断じて許さないっ! そんな図々しい、思いやりのかけらもない子になんか、ジョーを渡してなるもんですか!)
まだ頬に残る涙の後をぐい、とぬぐって、フランソワーズは静かに部屋を出て行った。

「博士の避難、OK!」
「壊れ物退避、完了!」
「窓ガラス防御…おい、こりゃちょっと無理だぜ。ガラスがでかすぎる」
「じゃあカーテンでも引いとけ。何もないよりゃ、マシだろう」
 ジョーの部屋では、五人の男たちが慌てふためいて走り回っていた。その様子を、ドアの脇にもたれたままじっと見詰めるアルベルト。『傍観者に徹する』という言葉を、律儀に守っているものと見える。
(いまさらそんなことをしたって無駄だろうに…。そんな暇があれば、さっさとジョーのメイクを落としちまえって…ん? ああ、こりゃもう間に合わんな)
 廊下の向こうからひたひたと近づいてくる足音を聞きつけ、銀色の髪の死神はさりげなく本棚の陰へと移動した。
 そして―
 何の前触れもなく凄まじい勢いで開いたドアが、壁にぶつかって大きな音を立てた。刹那、部屋中がしん…と凍りつく。
「や…やあ、フランソワーズ」
「気分が悪いって聞いてた…けど…もう、大丈夫…か…な?」
 からからに渇いた舌を懸命に動かし、口々に話しかけてみる。しかし、返事はない。
「どいて、ちょうだい…」
 押し殺した、低い声。瞋恚に青白く燃える双眸。そのとき、部屋の中にいた者全員が、彼女の背後に揺らめく禍々しいおどろ線の幻を見た。
「聞こえなかった…の?」
 今のフランソワーズなら、イワンと同じく一睨みでこの世のあらゆるものを破壊し尽くすことができるだろう。最早、彼女を制止できるものなど誰もいなかった。閲兵式の兵士よろしくさっと二手に分かれて直立不動の姿勢を取る仲間たちの間を、フランソワーズはゆっくりと進んで行く。
 その足がベッドの傍らでふと止まったとき。一瞬の静寂がその場を覆い、そして―
「くぉぉぉぉぉぉのぉぉぉぉぉっ!!」
 目にも留まらぬ素早さで、フランソワーズの両手が「眠り姫」の襟元を吊るし上げた!
「ちょっとあんたっ!! ぃいいいい加減に、しなさいよねっっっ!! あたしの留守にこそこそと忍び込んでジョーにちょっかい出すなんて、よくもやってくれたもんだわ! その上、彼のベッドで眠りこむなんて、図々しいにも程があるってえのよ! 起きんかい、こらあっ! このあたしが思い知らせてやるっ!!」
「ちょ、ちょっと待て、フランソワーズ!」
「落ち着けっ! とにかく落ち着いて、もう一度話を聞くんだ! いや、聞いてくれえええぇ〜っ!」
「邪魔するんじゃないわよっ!」
 背後から駆け寄り、フランソワーズを羽交い締めにしようとしたピュンマの鳩尾に、見事な肘鉄が食い込んだ。よろめいて倒れそうになるその足元をかいくぐり、体を捻って真正面から抱きついたジェットの顔面には掌底の一撃。その隙に側面から押さえ込もうとしたグレートと張々湖は張り倒され、腹の痛みを堪えて再度挑もうとしたピュンマの足には渾身の蹴りが炸裂した。恐ろしいのは、それでもフランソワーズの片手はまだ、しっかりと「眠り姫」の襟首を吊るし上げていることで…。目の周りにくっきりと青痣を作ったジェットがさらに飛びついていこうとするのを見て、一人冷静にこの有様を見詰めていたアルベルトは、肩をすくめて窓のほうに目をやった。
「ジェロニモ。こうなったらもうどうしようもないだろう…頼む」
「ムウ」
 自らの怪力を慮ってか、この場はひたすら窓ガラスを死守するつもりだったらしいジェロニモが、蹴り飛ばされて吹っ飛んできた張々湖を受け止めながら、す…と一歩、踏み出した。それを横目で見やりながら、窓際の床にへたり込んでぜいぜいと肩で息をしている張々湖に脳波通信を送る。
(大人。今のうちに、アレを用意しといてくれないか)
(アレ?)
(ああ。さっき状況説明に出てきたろう)
 本来なら仲間全員に伝わるはずなのに、反応してくるのは張々湖一人だけ。だが、こんな状況では無理もあるまい。今のフランソワーズは自分に脳波通信機が埋め込まれていることすら忘れているだろうし、他の連中はというと、ジェロニモはともかくとして後は皆すでに床に倒れ伏し、起き上がることすらできなくなっていた。その周囲の壁には、あちこちに人形の窪みがくっきりとついている。
 ベッドの上では、ようやく邪魔者を片付けたフランソワーズが、青白く燃える眼差しを「眠り姫」に戻したところだった。
「さあ、これでゆっくり話ができるわね…」
 これからが女の勝負、とばかりにその襟をつかむ手にぐっと力が入ったところへ、突然伸びてきた、褐色の太い腕。
「きゃあっ! ジェロニモッ、何するのよ!」
 完全に気配を殺し、そっとフランソワーズの背後に忍び寄っていたジェロニモが、一気に彼女を押さえつけたのである。
「嫌っ! 嫌よジェロニモ! お願い、離してっ!」
 全力でもがいてみてもさすがにこの鋼鉄の巨人には通用しない。フランソワーズの指から力が抜け、「眠り姫」がはたりとベッドに倒れこむ。
「フランソワーズ、何か誤解している」
 重々しいその声がさすがのフランソワーズの動きをも止めた。その隙を見逃さなかったのはジェット。彼はちょうど、張々湖に抱き起こされて何やら囁き合っていたところだったが、これこそ絶好のチャンスとばかり、残る力をふりしぼって一気にベッドに跳び上がった。
「ジェロニモの言う通り、誤解なんだ、フランソワーズ! こいつは女の子なんかじゃない、ジョーなんだよっ!」
 叫びながら傍らの「眠り姫」を抱き起こし、鬘をむしり取る。たったそれだけで、瞬時に「眠り姫」がジョーに戻った。額にはらりとこぼれかかる、長い前髪。
「この長い髪は鬘なんだよっ。それにほら、見ろ、のどぼとけっ」
 「眠り姫」の顎に手をかけ、ぐい、と上向かせれば、白く滑らかな喉にそれでもしっかり存在している小さな突起。
「これでも信じられないなら、ほら見ろ、胸だって…」
 パジャマのボタンにさっと手を伸ばしたジェットを、アルベルトが張り倒した。
「そこまでやらんでもいい!」
 ジェロニモの腕の中、フランソワーズの全身からがっくりと力が抜ける。
「そんな…一体、どういうこと…? あの子が、ジョーなんて…それならあたし、何をあんなに…怒って…泣いて…」
「フランソワーズは疲れてたんアルよ」
 絶妙のタイミングで差し出された湯呑みの中では、温かい烏龍茶がほかほかと湯気を立てていた。
「とにかくそれ飲んで、気を静めるヨロシ。事情は後で、わてがちゃんと説明してあげるよってな…そうそう、いい子、いい子アルね」
 赤ん坊をあやすように、張々湖がそっとフランソワーズの髪をなでる。それへうなづきかけて烏龍茶を飲み干すフランソワーズ。してやったり…と張々湖がアルベルトに目配せを送るより早く、彼女はジェロニモの胸にもたれ、すやすやと寝息を立てていた。
 この烏龍茶にさっきの睡眠薬の残りが溶かし込まれていたことは言うまでもない。
「やれやれ…これでやっと、一件落着ってとこか」
 ベッドの上のジェットが「眠り姫」…いや、ジョーを抱きかかえたまま額の汗を拳で拭う。床に倒れていた面々も、顔をしかめたり、体のあちこちを抑えたりしながらも何とか起き上がろうとしていた。安堵の息をつきながら、ジェットは腕の中のジョーに話しかける。
「お前もびっくりしたろ、ジョー。いきなり、フランソワーズに吊るし上げ食らっちゃあな…って、おいっ!」
 あろうことか、ジョーはジェットの胸にことん、と頭を持たせかけ、いまだ心地よさそうに眠っている。
 いくら、薬を飲まされたとはいえ。
 いくら、まだ具合が悪いとはいえ。
 ジェットの髪が一気に逆立った。
「てめえええぇぇぇっっっ!! こんなんなっても、むぁぁだ寝るかああぁっ!!」
 さすがに、この一喝は効いたらしい。ジョーの瞳がゆっくりと開く。
(あれ…ジェット?)
 どうやら、脳波通信機を使っても頭痛が起きないくらいには回復したようだ。
(どうしたんだい、その目…まるで、パンダみたいだ)
 確かに、今回の騒ぎの原因を作ったのは自分たちである。「諸悪の根源」と言われても仕方あるまい。
 とはいえ、あんな思いをして、傷だらけになって。挙句の果てにパンダ扱いでは、ジェットでなくても怒るだろう。
「うるせぇ! 元はといえばお前の、この顔の所為なんだよっ」
 ベッド脇のサイドボードに都合よく置いてあった卓上鏡をその鼻っ面に突きつける。ジョーの目が、ぼんやりと鏡面を見つめた。
(あ…ジェット…もしかして)
 やっと気づいたか。ジェットはふん、と鼻を鳴らした。
(この鏡、壊れてるよ…僕じゃない、女の子が映ってる…)
 ジェットの頭の中が、真っ白になった。
「莫迦野郎っ!壊れてんのは、お前の頭だっ!」
 気を取り直して怒鳴りつけたものの、悲しいかな、タイムラグが十数秒。そのわずかな間にジョーはまた、気持ちよさそうに眠り込んでしまっていた。
「……ッ!」
 やり場のない怒りがこみ上げてきて、つい振り上げた拳を抑えたのは、張々湖。
「ジェット。おまはんが薬を飲ませてから、まだ一時間四十分しか経っていないアル。完全に目が覚めるまでにはまだ二十分ほどかかるアルね」
「くぅぅぅぅっ…っ」
 ジェットの歯軋りの音はその場にいた全員に聞こえた。
 それから一分も経たないうちに、投げ捨てた鬘を再びジョーにかぶせ、どこから探してきたのか特大の手鏡をしっかりと抱え込んでその枕元に陣取ったジェットを咎める者が誰一人いなかったことは、言うまでもない。

 そして。
 フランソワーズはそのまま翌日の朝まで眠り続けた。おそらく、疲労が限界近くまでたまっていたのだろう。気分転換のための適度な運動と睡眠薬入りの烏龍茶は、彼女にとってはよい疲労回復剤になったようだ。
 あれから三十分後、今度こそすっきりと気持ちよく目覚めたと同時にいきなりジェットに首根っこをひっつかまれ、特大の鏡を突きつけられたジョーは、しばらくの間はきょとんとした表情で鏡を見つめていたものの、やがて声も立てずにぶっ倒れた。その夜、彼の熱は再び四十度近くまで上がり、さらにそれから二日二晩、意識を取り戻さないままうなされ続けたという。ちなみにその間、他の仲間たち(特にグレートとジェット、そして張々湖)はフランソワーズによってジョーの部屋への立ち入りを固く禁じられたことを、ここにつけ加えておく。
 以上二点の理由により、ギルモア博士の帰国祝いは当然のごとく延期となったが、それは博士にとっても幸いだったに違いない。何故なら、あの時笑うことしかできなかった博士の放心状態が、その後も丸一日続いたからだ。緊急事態にすっ飛んできた石原医師の診断によると、過労と時差ボケ、そして一時的ショックによる突発性老人性痴呆症だったそうだが、現在に至るまでギルモア博士はその診断を誤診だと言い張っている。

 さて。そんなすったもんだを経て、さらに十日後。今度こそ平穏を取り戻した(ホントかよ)ギルモア邸において、ギルモア博士の帰国祝いとジョーの全快祝いがまとめて行われることになった。メンバー九人とギルモア博士に加え、コズミ博士と石原医師も招待されて、集まったのは十二人。
「さあみんな、今日はわいとフランソワーズが腕によりかけて、うまいもんたくさん作ったからネ。どんどん食べるヨロシ。遠慮なんかしちゃ駄目アルよ」
「料理だけじゃない、酒もたっぷり用意したぜ。ビール、ワイン、スコッチ、老酒、日本酒、それにウオツカもな」
「あんまり飲みすぎないでよ。酔いつぶれたみんなをお部屋まで連れてくの、大変なんだから」
「まあまあ、固いこと言うなって」
「いい加減にせんか。石原君がびっくりしとるじゃないか」
「いえ、僕は、あの…」
「そうそう。先生は普段の俺たちにすっげぇ、興味あるんだもんな」
「そんな…やめて下さいよ、ジェットさん」
「いーじゃねぇか、ホントのことなんだから」
 そんなふうに始まったパーティーは、はじめはごく和やかに、そして時間が経つにつれ、どんどん賑やかになっていった。誰もが思う存分食べ、飲み、しゃべり、歓声を上げ、大きな声で笑う。そこに集まった全員が、この夜を思い切り楽しもうとしていた。
 そんな中、グレートはつと部屋を抜け出し、ポーチに出た。手にしたスコッチのグラスを手すりの上に置き、自分もその隣に両肘をつく。そろそろ本格的な冬を迎えようとする夜。空にかかる細い月の光は冴え冴えと白く、吹きすぎる風は痛いほどに冷たくなっていたが、今は妙にそれが心地よかった。
「あれ、グレート。こんなところにいたんだ」
 振り向くと、酒の所為だろうか、ほんの少し顔を赤くしたジョーが立っている。
「何だ、お前も抜けてきちまったのかよ。主役がいなくなっちまったらせっかくのパーティーが盛り下がっちまうじゃねぇか」
「大丈夫だよ。ジェットと石原先生が二人で十人分くらい騒いでくれてるから。あの先生、あんまりお酒強そうじゃないのにみんなが面白がって飲ませてさ。ついさっきまで、コズミ博士と肩組んで、踊りつきで大学の校歌歌ってたんだよ。きっと明日はすごい二日酔いだね。可哀想に」
 そう言ってジョーはくすりと笑い、グレートと並んで手すりにもたれた。しばらくの沈黙。
(あ、そうだ。この前のこと、一応謝っとかなきゃな)
 大切なことを忘れていたと、慌てて口を開こうとしたグレートよりも早く。
「あのさ、グレート」
 ジョーがいつもの人懐っこい笑みでこちらを見つめていた。
「この間は、ありがとう」
「はぁ!?」
 グレートの目が点になった。怒られるならともかく、礼を言われる筋合いなど、これっぽっちもない。…はずなのだが。
「ジェットから聞いたよ。最初、歌舞伎の隈取にするはずだったのを、グレートがやめようって言ってくれたんだろ? よかった。さすがの僕も、目を覚まして自分の顔がええと、何だっけ? …よくわかんないけど、とにかくあんなふうになってたらショック死してたかもしれない。普通の女の子のメイクだったから、まだ何とか耐えられたけど」
 そういう問題じゃねえだろが…。グレートは頭を抱えた。お人好しも、ここまでくると犯罪だ。果たしてこいつ、この先世間ってやつを無事に渡っていけるんだろうか。
 でも。すぐに考え直す。こんな、いつまでたっても目を離せないお子様だから、俺や張々湖のような人生の先輩が傍についていてやらなきゃいけないのかもしれんな、と。ふと唇に浮かんだのは間違いなく苦笑。その反面、この年若い仲間が愛しくてたまらない自分に気づく。そう…まるで、昔の俺を見ているようだ。「ヴァイオレット」にぞっこんで、芝居と友達がこの世で一番大切だった頃の。
「あのな、ジョー」
 気がついたら、その栗色の髪をくしゃっとかき回していた。
「お前、もっと俺たちに怒っていいんだぞ。…少なくとも今回は、俺が昔を思い出して悪ノリした所為で、お前は二日も余計にベッドに縛り付けられる羽目になっちまったんだからな」
「グレート?」
 思いがけないことを突然言われて、ジョーが戸惑ったふうにグレートを見る。再び、グレートが苦笑した。
「安心しろや。タチの悪い悪戯に本気で怒ったところで、誰もお前を嫌いになんかならんさ」
「そんな…何、言ってるんだよ。僕は別に…」
 へへへ…図星か。思った通りの反応に、一人悦に入っていたグレートだったが。
「グレート、あまりジョーをからかうのはよくない。ジョーがグレートを怒る理由など、ない」
「ジェロニモ!」
 いつの間にか二人の背後にたたずんでいた、巨大な影。
「俺たちインディアンにとって、化粧は邪気を祓い、疫神を防ぐもの。グレートがジョーに化粧したから、ジョーの風邪、治った」
「うん、そう! そうだよね、ジェロニモ!」
 思いがけない援軍に、ジョーがほっとしたように笑った。やれやれ、とグレートは肩をすくめる。
(せっかく、年長者として人生指南の一つもしてやろうと思ったのに、これじゃ台無しじゃねえか)
「二人がいなくなったから、みんな、探してる。だから、見に来た」
「あ…ごめん。心配させちゃったかな」
 ジェロニモの言葉に、ジョーはすぐに手すりから離れた。しかしグレートの方は動く気配を見せない。
「…先に行っててくれや。俺は、これを飲んじまってから戻る」
 言いながらグラスを持ち上げ軽く振って見せると、かなり小さくなってしまった氷がからん、と心地よい音を立てた。
 ジェロニモとジョーが、こっくりとうなづいて去って行く。屋内からは、臆面もなく騒ぎまくっている仲間たちの声が、風に乗ってはっきりと聞こえてきた。
「こんな人里離れた一軒家でなきゃ、ご町内から追い出されてるぞ…いつまで騒ぐ気なんだ」
 つぶやいても、もう返事をするものは誰もいない。
「それにしてもジェロニモの奴、変なところで出てきやがって…ホントのこと、言いそびれちまったじゃねえか」
 そのくせ、さほど残念そうな表情も見せずに、グレートは上着のポケットを探る。取り出したのは、四角くて細長い、小さな紙のパッケージ。褪せた紫のインク。微笑む少女。
 細心の注意を払って、そっとふたを開ける。すべり出てきたチューブには、『Color No.00.White』の文字が、くっきりと見えた。だが、その残りはもうほんのわずかで。そう、もう後一回分すら、残っているかどうか。
「あのピエロの為に使い過ぎちまったって、気づかなかった俺も莫迦だよ、実際」
 たったこれっぽっちじゃ、隈取なんかできやしない。第一…
 幾分悄然として、目を落とす。掌の中。すりきれたパッケージ。ほんの少しだけになってしまったドーラン。…ヴァイオレット。俺たちの夢。

(でも、本当の夢は私じゃないでしょ?)
 突然、風に乗って鈴を転がすような声が聞こえた気がした。
(貴方の本当の夢…少なくともその切符は、私がずっと守ってきたモノ)
 紫の少女の微笑が、悪戯っぽい満面の笑みに変わる。
(私は、貴方の夢の番人。最後までしっかり守るから、安心してね)

 はっとしてパッケージを見直したものの、そこにはただ、淡く消えかかった少女の絵が描いてあるだけ。
「いけねぇ…飲みすぎたかな」
 つぶやきながら、それでもグレートは傍らのグラスを取り上げ、残っていたスコッチを一気に飲み干した。
「ジョーよ、俺は別に、お前に気兼ねしてクマドリをやめたわけじゃないんだぜ。ただ、さ…。空っぽになっちまった夢の器だけを持ち続けるなんてのは、あんまり、哀しすぎるじゃねぇか。…そう、思わないか?」
 そしてまた、チューブをパッケージで包み、上着のポケットに落とし込んで。
 一人の酔っ払いが空っぽのグラスを片手に、喧騒の渦と化した家の中へと、おぼつかない足取りでゆっくりと戻っていった。

 その夜の大騒ぎがいつまで続いたかは、誰も知らない―

〈了〉
 


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