第四章
「ほう…それで、君はうまく逃げのびた、ってわけかい?」
感心したような、呆れたような口調で相手の男は言い、考え込むように両腕を組んだ。
「悪いが、ちょっと私には信じられないね。何と言っても、君は今、どこから見ても元気そのものだ。十日ちょっと前にそんな酷い目にあったとは、とてもじゃないが思えないよ」
男の言うことはもっともだった。ゲデルとゴド、そしてその手下どもに襲われたあの夜、セイが受けた傷はかなり酷く、手当てを終えたマスターが小声でセレインに言ったのは、
(一日二日は…なんて言ったが、ありゃ、下手するとまともに動けるようになるには一か月近く、かかるかもしれないぜ)
しかし、セイの回復は驚くほど早かった。初めの二、三日はさすがにベッドから動けなかったものの、やがてすぐに体を起こせるようになり、部屋の中をそろそろとなら歩くこともできるようになった。あれからずっとかいがいしく看護をしていたセレインは、薬を塗ろうと包帯をほどいてやるたびに目に見えて傷が治っていくのを見て、安心するよりもあっけに取られたものである。
「やっぱり、若いのねえ」
一週間もすると、あれほど酷かった傷がごく淡い紅色の痕を残すだけになった。そして、ほっと一息ついたセレインに、セイは再び、ピアノを弾きたい…と告げたのである。
「大丈夫なの?」
心配しないでもなかったが、セレイン自身、仕事をしないでいることに多少の焦りを感じていたし、セイの決心が固いことを知ると無理に止めようとはしなかった。しかしマスターとも話した通り、セレインは『アモール』の支配人に頼んで次の仕事を見つけることに決めていた。その話をすると、少年は案の定一緒に行くことを拒んだので、これもマスターとの打ち合わせのままに『メトセラ』を紹介したのである。
『アモール』のような高級クラブではないものの、そこはかなり大きな店で、結構繁盛もしているようだった。セイが訪ねたのは午後もまだかなり早い時刻だったので客の姿は一人も見えなかったが、雰囲気でわかる。感じのいい店だ、とセイは思った。
迎えてくれたのは、何かの帳簿をつけていた男が一人。用件を告げ、指し示された店のピアノで短い曲を一曲弾いた。聴いていた男が大きくうなづき、少年はさらに奥へと通された。そして今、二人が話しているのはスタッフ達の控え室である。
「…失礼を承知で言うんだが、そんな怪我をしたというんなら、傷をちょっと見せてくれないか。私はこれでもその手の経験は結構積んでるんだ。一目見れば、どうして、いつ頃できた傷かくらいは見分けられる」
かすかにずるそうな光を目に浮かべて、男は言った。―ランヴィル。ゲデルと張り合う、この街の顔役であるという彼はきちんとしたスーツを着こなし、言葉遣いや態度もそれにふさわしいものであった。知らぬ者が見たら『首都』に住む青年実業家とでも思うかもしれない。が、彼がセイを見つめる目は、はっきりとこう語りかけていた。
(どうだ? 嘘ならすぐばれるんだぞ。もし私を騙そうとしているのなら、無駄なことだ)
セイはランヴィルの視線を軽く受け流し、静かにシャツのボタンを外した。
「かなりもう、よくなってはいるんですが…ここが一番、酷かったそうです」
襟元を広げ、首のつけ根から胸にかけてを指し示す。さすがにそこだけは、ようやく新しい薄皮ができたところで、その下からはまだ生々しい肉の色が鮮やかに透けていた。まじろぎもせずにそれを見つめていたランヴィルが、そっと手をのばす。
「さわってもいいかね?」
「どうぞ」
そのまま、医者のような手つきでランヴィルはセイの傷をまさぐった。やがてその手が静かに戻される。
「すまなかった。どうか、服を直してくれ。…確かに、ムチの傷だな。ただ、十日前にしては治りが早すぎるようだが」
「僕は生まれつき、怪我とか傷の治りは早いんですよ」
「ふむ…やっぱり、若さかな。…まあいい。疑おうと思えばいくらでも疑える。が、今のところ、こんな傷痕までつけて私を探りにくるような奴には心当たりがない。たとえ、ゲデルにしてもね。…よし、君を、雇おうじゃないか。今夜からでもいい。都合のつき次第、できるだけ早く来てほしい」
ランヴィルは立ち上がって、右手を差し出した。セイが同じく右手を出してその手を握り返した瞬間、ランヴィルの目が、何か言いたげな光を浮かべ、しばたいた。
「そういえば…君はここしばらく、セレインという女と一緒に舞台に立っていなかったかい? 彼女が凄腕の、えらく若くて綺麗な顔立ちのピアニストと組んだという噂を聞いたんだが」
「ああ…それは多分僕のことでしょう。自分の顔立ちが綺麗かどうかは知りませんが」
セイの表情は変わらない。
「彼女とは、どういう関係だ?…もう、一緒には演らないのかね」
「『アモール』というクラブで出会って、しばらく一緒にいろんな店をまわりました。…でも、この前ちょっとしたことで喧嘩して…以来、会っていません」
「…そう言え、と彼女に言われたか」
何気ない声に、セイは微笑んでうなづいた。
「はい」
ランヴィルはそこで大きく息をつき、片手で頭を抱えた。
「…で? そう言わなければならない理由を、君は何と聞いた」
「昔…ランヴィルさんとの間にちょっとしたゴタゴタがあったから…多分、貴方は彼女と関わりあいのある者をこの店で雇うのは喜ばないだろうと」
「…そうか」
ランヴィルの視線がゆっくりとセイに向けられる。が、その目は少年を見てはおらず、その向こう、もっと遠い何ものかをじっと見つめていた。
「彼女も、辛いな…何もかも忘れてしまえばもっと楽になるだろうに。頭のいい女だから、愚かになりきるということができない。私のことまで、いまだに気にしている」
「貴方は、昔のセレインを知っているんですか」
「ああ。彼女がまだ、君より若かった頃からね。私は、彼女のファンだった」
「…だったら何故、セレインはこの店を…貴方を避けるんだろう」
ひとりごとに似せて、明らかな問いかけ。
「知りたいのかね。何故」
「セレインが、苦しんでいるから。僕に嘘をつき、貴方を避けることで。彼女はああいう女だから、そんなことそぶりにも出さないけどね。どんな理由があるのかも、僕は知らない。でも、何が彼女を苦しめているのかがわかれば慰めてやることもできるかもしれないでしょう」
「惚れたか」
ランヴィルの口元が、わずかにほころんだ。面白そうに、セイの頭からつま先までをねめまわす。目の前にいるこの美しい少年が、セレインの相手としてふさわしいかどうかを値踏みしているような態度だ。セイはしばらくその視線を好きにさせておいたが、ランヴィルの興味が十分満たされた頃を見計らって、静かに―しかしはっきりと、首を横に振った。
「セレインを…女として愛しているわけじゃない。彼女もそんなこと、考えたこともないと思う。第一、彼女の愛する人は、別にいる。…でも僕は、セレインが好きです」
ランヴィルの表情に、今度こそ本物の笑みが浮かんだ。
「よし。君になら話しても…いや、話したほうがよさそうだ。教えてあげよう」
部屋に帰ってきたのは、セレインのほうが早かった。エアコンのスイッチを入れ、コートを脱ぎ、コーヒーを入れてリビングのソファ―セイがベッドとして使っている―に腰を下ろし、やっと一息ついたとき、ドアが開いた。
「セレイン…帰ってたの?」
「ええ。つい今しがた。おかげで何とか、仕事は取れたわ。あんたの方は?」
「こっちも取れたよ。明日から、『メトセラ』で演る」
「そう…よかった」
安心したのか、目を閉じてソファに沈み込んだセレインの様子を見て、セイはちょっと首をかしげた。
「疲れてるみたいだね。…気の進まない仕事なの?」
目を閉じたまま、セレインは首を振った。
「そんなわけじゃないわ。仕事があっただけでも喜ばなくちゃ。…贅沢なんて、言ってられないもんね」
「また、統治体相手の舞台か何か?」
セレインの肩が、ぴくりと震えた。はっと顔を上げ、傍らの少年をまじまじと見つめる。
「…あんた、何で知ってんの?」
すぐには答えず、セイはそっとソファの肘掛けの部分に腰を下ろした。
「ランヴィルから聞いた。近いうち…もしかしたら明日にでも、駐屯軍に新しい司令官が来るってさ。セレインは、軍人も統治体も嫌いだから」
そう言われてセレインはほっと、身体の力を抜いた。
「…そうだったの。彼も相変わらずね。ものすごい、情報通だわ」
セイの表情が、ちょっとだけ、変わった。何かを思い迷うふうに目を伏せ、首をかしげて、しばらくの間黙っている。しかしやがてその顔が上がり、ゆっくり、しかしはっきりとした声がセレインに言った。
「ランヴィルは、話してくれたよ。何もかも」
「え…っ」
まさか、と言いかけた言葉が出ない。驚いた、探るよう目がセイを見る。しかしその視線はあちこちと落ち着かなく動き回り、かすかな怯えをも浮かべていた。
(何を聞いたの? どこまで…知ったの?)
セイもまた、セレインをじっと見つめていた。静かに、深い紫色の瞳。それがふと細められ、穏やかな笑みになる。が、それにはどこか、痛ましげな、哀れみの色が混じっていた。
「…ずっと、そんなふうに悩んでたの? セレインが苦しむ理由なんて、どこにもなかったのに。セレインがしたのは当り前のことだよ。…僕だって、同じ立場に置かれたら同じことをするだろう。…いいんだ、もう。何も、悲しまないで…」
(いつも、あたし思ってたわ)
(小さな頃からずっと、思ってたわ。何で、ラヴォールにはこんなに軍人がたくさんいるんだろう。どうして、ラヴォールの人間じゃない、別の惑星の人間がこんなにも威張っているんだろうって)
(ラヴォールは、独立した惑星国家よ。自分たちの手で、自分たちの政府を作ることが、何故できないの?)
(あたし、ずっと思ってたわ…)
三十年前。当時のラヴォール大統領、サー・レ・リコゼッタが暗殺された。犯人は今もなお、不明。が、当時、地球連邦統治体情報局のメンバーが何人か非公式にこの惑星を訪れており、また、その後の捜査においても彼らが半ば強引にラヴォール当局から主導権を奪い取った上、半年後、一方的に迷宮入りの判断を下したことから、この事件を仕組んだのは統治体であるという噂が長い間人々の間でささやかれたものであった。
もともと、ラヴォールは地球からの移民によって開拓された、統治体の植民地といっていい惑星だった。が、代を重ねるにつれて人々は地球人からラヴォール人へと確実に変化していく。地球で生まれた第一次移民がほとんど姿を消し、ラヴォールで生まれた子らが生活、産業、そして自治政体の中心になるにつれ、独立を求める声が全ラヴォールからわきあがった。それは他の植民惑星についても同じことで、やがて銀河のあちこちで、統治体と植民惑星との小競り合いが頻発するようになる。このままでは全面戦争になると判断した地球は彼らの独立を認めるかわり、地球を中心に各惑星が協力しあうための組織と称して銀河系惑星評議会を作り上げ、それへの加盟を強制したのであった。ラヴォールもまた、その一員となる。
しかしその中でのラヴォールの力は弱く、常に地球や他の有力惑星の下風に立ち、軽んじられなければならなかった。その状況を、何としてでも逆転しようとしたのがリコゼッタである。彼は、豊富な鉱物資源を唯一の持ち駒として最大限に利用し、一方では優れた科学者や企業家を優遇して新たな手駒を揃えるのにも苦心した。その甲斐あって、ラヴォールの勢力は少しずつではあるが確実に強大となり、ついには地球連邦統治体ともほぼ匹敵するようになりかけた―リコゼッタが殺されたのは、ちょうどそんなときだったのである。
暗殺から半年後、ついに犯人は不明のまま、統治体は捜査の打ち切りを宣言し、ラヴォールから撤退した。後には、偉大な指導者を失って途方にくれたラヴォールの人々だけが残された。リコゼッタは半独裁的な政治を行っていた上、彼を補佐していた数少ない側近も皆、大統領暗殺の折に殺されたり行方不明になったりしていたので、もう、この惑星を治めていけるような人物は、事実上いなかった。ラヴォールのあらゆる機構は混乱し、秩序も崩壊しかかった。それでも星内の混乱はやがて落ち着き、人々は細かく区分された行政区ごとにまとまり、何とかもとの姿を取り戻しつつあったが、それらはあまりに小さく局地的であった。内政的な諸問題を解決していくのがやっとという状態の彼らには、他惑星との外交を扱っていく能力はなかった。というより、そんなところまで手が回らなかったのだ。そこに、新たな混乱を巻き起こす隙があった。
誰も、気づかぬうちに。他の惑星からラヴォールへ入りこんでくる人間の数が増えていった。彼らは皆、ごく普通の旅行者を装ってこの星を訪れたが、本当にそうだったのはその中のほんの一握りに過ぎなかった。入国審査の甘さにつけこみ、無害な一般人の仮面を被ってラヴォールに降り立った者のほとんどが、過去に何らかの罪を犯し、保安機構に追われて逃げ込んできた犯罪者だったのである。通常の手続きを取ることなく、いわゆる密入国を果たした者の数はさらに多く、その上、誰よりも始末におえない悪党だった。ラヴォールの人々が異常に気づいたときには既に遅く、街には麻薬があふれ、喧嘩やゆすり、たかりが日常茶飯事となった。犯罪件数は激増し、治安は悪化の一途をたどった。治安維持のための警察機構も、この頃にはまだ例の小さな行政区単位のささやかな取締りをするのが精一杯で、これほどにはびこってしまった犯罪者どもを一掃することなどとてもできたものではなかった。
そして、七年が過ぎる頃。銀河に悪名高い一大犯罪惑星と化したラヴォールでは、暴力と虚偽が新しい秩序となり、力の強さが唯一の正義としてまかり通るようになっていた。銀河中から追われた犯罪者どもがこの惑星の実質上の支配者になり、一般市民は少しずつ、その姿を消していった。あるものはこれら凶暴な連中の犠牲となって無残にその命を絶たれ、別のあるものは住み慣れた大地を見限って別の惑星へと移り住んでいった。
独立した惑星国家、ラヴォールは死んだ―かろうじて残ったラヴォール人の誰もがその悲しい事実を認めたとき、ラヴォール行政府はその名において、銀河系惑星評議会に救援を要請した。それを受けて、盟主である地球連邦統治体は早速特別派遣軍を編成し、ラヴォールに巣食う犯罪者どもの撲滅に乗り出した。実のところ、地球はこれを待っていたのである。リコゼッタの時代から、ラヴォールは地球にとって目障りな存在である一方、その鉱物資源は大きな魅力であり、のどから手が出るほど欲しいものであった。が、銀河中に認められた独立惑星にはいかに地球とはいえ、むやみと手は出せない。しかし、当のラヴォールからの要請があれば話は別である。ラヴォールから悪党どもを一掃するとともに惑星政府の弱体化、人口の激減を理由に委任統治権を得ることさえできればと―地球ははやる心を懸命に抑え、機会が来るのをじっと待っていたのである。
派遣軍到着後、ラヴォール全土を巻き込んだ掃討作戦は約一年をかけてようやく終了した。その間、巻き添えをくって死んだ一般市民は数知れず、全てが終わったとき、ラヴォールの人口はやっと二十万弱―リコゼッタ時代の十分の一にも満たなかったといわれる。地球が望んでいたものを手に入れるにはもう何の障害もなかった。そう…何も。荒々しい外科手術によって病巣は全て取り除かれた。しかし、その健康な大地と引き換えに失ったものはあまりにも大きく、疲れきった人々にはもう、おのれの故郷を自ら建て直す力は残っていなかった。それこそ、地球の思うつぼだったのである。ラヴォール復興という理由のもとに地球から新たな移民が大挙して押し寄せ、見る見るうちに生活を、産業を、そして経済を建て直していった。
それから十年ほどの間は、何事もなく過ぎた。誰もが平和に、それぞれの生業にいそしみ、穏やかな暮らしを営んでいる…かつて地球とその力を競った時代の面影こそ失ったものの、その後の悪夢の日々から較べれば夢のような、幸せな毎日。…そう、たった一つのことを除いては。すなわち、それをもたらしたのは、ラヴォール人自身ではなく、地球連邦統治体であるということ以外なら。新しい支配者は、以前のそれに較べれば遥かに寛大で慈悲深いように見えた。かつての勢力は取り戻せなくても、この力強い守護者の庇護のもとにあれば、もう一度、一からやりなおすことができるかもしれない。ほんの一瞬、ラヴォールの人々はそんな、はかない幻想をさえ抱いていた。が―
ようやく、現在の状況を冷静かつ客観的に分析するだけの余裕を取り戻した彼らの目に映ったのは、独立惑星国家としての機能も誇りも、何もかも地球に奪い取られた母星の現実だった。そのときには既に、国家運営の実権は地球からの『新移民』の手に移り、ラヴォール人は彼らの言うなりにしかなれない操り人形に過ぎなくなっていた。力強く頼り甲斐のある友邦はいつのまにか冷たい専制君主にかわり、この惑星の何もかもをその手の中に取り込もうと躍起になっていた。治安維持を口実に、常に必要以上の軍隊がラヴォールに配置され、地球に対する絶対の忠誠を人々に叩きこんだ。そのやり方に反発するものは全て、口にすることも、考えることも禁じられた。形だけ、うわべだけの繁栄を謳歌しているように見えても、実際のところ、ラヴォールはかつての植民惑星以下、地球の奴隷と成り下がってしまったのである。
そんな状況に対する不満の声は、いつでも若い世代の中からわきあがる。まず学生たちが統治体のやり方に対し、あからさまな抗議活動を開始した。抑えても抑えてもそれはとどまるところを知らず、やがて学生以外の若者たちへも広がっていった。彼らは統治体の目を逃れるために地下へ潜り、いかにしてラヴォールに自治を取り戻すかについて、熱心に語りあった。
その中に、十七歳のセレインがいた。彼女はその若さにもかかわらず、既にラヴォール一の実力派歌手として認められ、新移民や統治体の軍人達の間にも多くのファンを持っていたが、体制におもねることは一切せず、ラヴォールを再びラヴォール人自身の手に取り戻すことだけを真剣に考えていた。幼い頃、この惑星を牛耳っていた無頼漢どもに両親を殺され、他所者に支配されることの悲しみや屈辱をいやというほど味わってきた彼女は、仲間内でももっとも過激な意見を述べ、理論よりも行動すべきだ、と言い張ってやまなかった。その主張は、最初のうちこそ無謀すぎると一蹴されたが、語るべきことが語り尽くされ、皆の気持ちが昂ぶってくるにしたがって、彼女に賛同する者の数が次第に増えていった。中でも最も熱心な支持者となった青年。彼は統治体が設立した大学に籍を置くエリートだったが彼女の考えに深く共鳴し、議論の場では常に、反対する穏健派から彼女をかばい、援護した。二人がいつしか、深く魅かれ合っていったのもあるいは当然かもしれない。
その頃には彼が実質的なリーダーとして、煮え切らない者たちを根気よく説得し、行動を起こすための準備を着々と進めていた。
いつしかセレインは、そんな彼の後ろをただひたすらついていくだけの存在になってしまったが―彼の思想、計画は、日一日と過激さを増していく一方だったが―それでも、彼女は彼の夢を自分の夢として一緒に追いつづけようと思った。ラヴォールを元の姿に戻すことが、もし、かなうのなら。他には何もいらないと、セレインは心の底から思っていた―
セレインが十九になった年、彼らはついに行動を起こした。まず、ラヴォールの統治権をラヴォール人の手に返還し、統治体派遣軍全員の撤退を求めた文書を行政府に提出する。が、その効力を信じる者は誰もいなかった。要求書はおそらく揉み潰されるだろう。しかしそのことによって、次の手段―武力闘争を正当化することができる、というのが彼らの描いたシナリオであった。案の定要求は黙殺され、いっそう強化された思想統制を打ち出した行政府に対し、彼らは堂々と闘争開始を宣言した。統治体にここまで食い物にされているラヴォールをかつての独立惑星国家に立ち返らせるには、武器と暴力に頼るしかない。幾度も議論を重ねてきた若者たちの、それは悲しい結論であった。誰かが何か行動を起こせば、それに呼応するものが必ず出てくる。一度は平和的政権返還を正式に要求したのだ。それを黙殺し、いっそうの弾圧で答えた非は明らかに統治体にある。この惑星の人々もきっと、統治体の理不尽なやり方に憤慨し、戦いに参加してくれるだろう。そうなればラヴォール開放はすぐにでも実現される。何と言っても、銀河系惑星評議会においてはまだ、ラヴォールはれっきとした独立惑星として承認されているのだから。行政府、または統治体軍部の関係施設を破壊し、要人を暗殺し…血生臭い日々に明け暮れながら、彼らの誰もが、まだ、夢を見ていた。もうすぐだ、もうすぐ、もうすぐ…呪文のように唱えながら、ひたすら夢の実現を目指していた若者たちは、やがて少しずつ、自分たちの誤算を思い知らされることになる。
彼らの誤算―それは、ラヴォールの人々の心を、完全に読み違えていたということ。たとえ統治体の奴隷、食い物というのが真実の姿であったとしても、とにかく今のラヴォールは平和と繁栄を取り戻している。一般市民のほとんどにとっては、それをもたらしてくれた統治体こそ救世主であり、やっと帰ってきた平和を乱すものは何であれ、忌むべきもの、悪しきものとしか認識されなかったのである。彼らの主張に賛同し、決起するものは皆無といってよかった。幾つかの地方都市でその動きに同調しようとする人間もいないではなかったが、それらは単に中央での派手な動きに触発され、跳ね上がっただけに過ぎず、行政府の弾圧の前ではさながら水面の泡のようにあっけなく、はかなく潰え去っていった。
ラヴォールの為に…愛する故郷に自由を取り戻そうと立ち上がった若者たちは、たった一人の理解者さえ得られぬままに絶対的な孤立の淵へと追いつめられていった。しかし、それでも彼らは自ら始めた戦いを止めることはできなかった。もはや誰一人、かつての夢の実現を信じてはいなかったが―それでも戦わなければ―戦わなければ、生きて行くことさえ…できはしない。重い軍靴に踏みにじられ、空しく死んでいくのもまた、一つの救い。だが、それをももし、拒むのなら。残された道は、いつ果てるとも知れない日々を、ひたすら戦いつづけることだけだった。
そんな絶望的な状況の中、セレインはそれでも生き抜いてきた。刻々と悪化する状況、指導者として誰よりも大きな不安と後悔にさいなまれている恋人の傍らを片時も離れることなく、彼女はその細い指に銃を取り、血と銃弾の中を走り、敵を倒しながら生き長らえてきた。もはや、仲間のほとんどは死に絶え、残っているものはほんの一握りに過ぎなかったが―この戦いに勝利する、などという希望など、もうただのひとかけらも残ってはいなかったが―かつての首都イルファンク市の片隅、薄暗いスラムに潜伏しながら、セレインたちは最後の総攻撃の準備を進めていた。行動を開始したあの日から較べれば、十数分の一にも満たない仲間は、イルファンク市の各所に散らばり、セレインたち本部からの合図を待っている。薄暗い明かりの中、この幾月かで見違えるほどやつれ切った恋人の側に、彼女はそっと寄り添った。
「今度で、最後だろうな」
青白い顔に頬骨だけが高く目立ち、濃い影を顔に落としている。声もすっかりかすれてしまった。…初めて会ったとき、この人はうっとりするような深いテノールで話したんだわ。…そう、いつか、一緒に歌いたいと思ったほど。そう言ったら、『俺は歌なんか、歌えねえよ』って。笑ったのよ、貴方。はにかんだ、少年のような、無垢な表情で。
「生き残れるものは、誰もいないだろうな。…いいのか」
「かまわないわ」
(私たちのやったことは、失敗だったのかもしれない)
ふと、セレインは思った。
(ただ、ラヴォールの現状を憂うことしかできなくて、他の何も、見えなくなっていた… そして貴方は一番、苦しんでいたわ。自分の判断が間違っていたんじゃないか、自分が何もかも、誤った方向へ導いてしまったんじゃないかって)
(…私には、わからない。何が正しくて、何が間違っていたのか。ただわかるのは、貴方が苦しんでいることだけ。…もうすぐ、終わるのよ。みんな。あとに何が残るかなんて、そんなの知らない。でも、明日になれば。夜が明けたら、みんな終わるわ。私たちの命も終わるのかもしれないけど、そうすれば、貴方の苦しみも私の悲しみも跡形もなく…消える。やっと楽になれるのよ、私たち)
(ただ、できれば…そのときはどうか、貴方のすぐ側にいられますように)
声には出さず、そっと心の中でつぶやいたセレインが、その身体をいっそう強く彼のもとにすり寄せたとき。
アジトの扉が、激しい音とともに蹴破られた。
「統治体だ!」
誰だかわからぬ、悲痛な叫び。荒々しくなだれ込んできた武装の一団が、一語も発しないまま手当たり次第に仲間たちを捕らえていく。抵抗した何人かは撃ち殺され、残った者は呆然と立ちすくんだまま、次々に押さえこまれ、手錠をかけられていった。手首に冷たい金属の輪が食い込み、乱暴に小突かれ、アジトから追いたてられるセレインが覚えていたのは、自分の傍らで蒼ざめた顔をうつむけ、同じように連行される恋人の姿だけ。
(よかった…あの人は、殺されなかったんだわ)
口元に、かすかな微笑みが浮かんだと同時に彼女は乱暴に突き飛ばされ、護送車の中へ倒れこんでいった。