第二章
「…わからないわ。どうしてあんな奴に、あんなピアノが弾けるのかしら」
『アモール』でのステージから数日後、セレインは再びあの穴ぐらのような店に来ていた。彼女のグラスに酒を注ぐ、痩せて背の高いマスターが、相変わらず不機嫌な顔でその深酒をたしなめる。
「いい加減にやめときな。お前、このごろ酒がすぎるぞ。それに…」
「うるさいね! ひとが考えごとしてるときに、はたからごちゃごちゃ言うんじゃないよ!」
「そら、それだ」
セレインの怒鳴り声を軽く受け流し、男は言う。が、その眉間に刻まれた皺はますます深くなっている。
「もともとお前は心のうちをはっきり顔に出す女だったが…最近はちょいとひどいぜ。俗に言うヒステリー、躁鬱病ってやつだ。何があった」
「何も。しいて言えば、この前一緒にやったガキがすごくカンに触る奴だった、ってことくらいさ」
「どんなガキだったんだい」
マスターは、セレインの嘘を知っている。彼女がどことなくおかしくなったのはもっとずっと…そう、一年くらい前のことだ。だが、彼はそれを指摘しようとはしない。黙って、彼女の好きなように喋らせている。そうしていると、人はつい本音を吐く。マスターはセレインがそうなるのを辛抱強く待つことにしたらしかった。
「んー? そうね…年齢は十五、六くらいかな。髪が腰まで伸びててね。とにかく、綺麗な子! あたし、一瞬女の子かと思ったくらいさ。…だけどねえ」
セレインはそこでぐい、と酒をあおった。
「態度が悪いったらないの。冷たくて、ぶっきらぼうで…まるで、この世には自分以外の人間なんて存在してないって感じ。…でも、それでもねえ」
「それでも? どうした」
男の声が、あやすように響いた。
「…すごいピアノ、弾くんだ。生まれて初めて聴いたよ、あんなの。…もう一度、聴きたい。あのピアノで、歌いたい。それができれば、あたし…」
いつしかセレインの上体はカウンターに崩れ落ち、ろれつも不確かになってきた。マスターはもう、話を促すことはしない。もし彼女が倒れでもしたらすぐに手当てをしてやれるよう、そっと手を休めている。
「なのにさあ! 消えちまったんだ、あいつ。あたしがあのいけ好かない統治体の奴らの相手をして、やっと楽屋へ戻ってみたら、もうあの子、いなかった…」
そのままカウンターに突っ伏して、セレインはもう、何も言わない。マスターが慌てて冷たい水の入ったグラスを差し出す。
「大丈夫か? ほら、水だ。飲めば少しは楽になるぜ、さあ」
半ば無理矢理に飲ませた水は、ほとんど胸元に落ちた。が、それでもいくらか人心地がついたのか、セレインはふらつく足で立ち上がる。
「ありがと。さすがに、今夜は飲みすぎたみたいね。…帰るわ」
「送って行こうか?」
「平気よ」
強気に答え、セレインは店を出た。ドアを出た瞬間、身を切るような風が吹きつける。それがかえって気持ちよい。帰り道の半分ほどきたときには足取りも心なしかしっかりしてきたようだ。つい、歌い慣れた歌の一節が口をつく。
(あんな男の前でくだをまくなんて…あたしも、ヤキがまわったもんだわ)
この間の少年のことは言い訳のつもりだったけれど、もしかしたら自分は本当にあの子にまた、会いたがっているのかもしれない。
(そこの角からひょい、とあの子が現れるような気がする。ほら、そこで喧嘩しているチンピラだって、あの子に見えるじゃない。…どうしようもないわね)
しかし、それはセレインの気の所為ではなかった。騒がしさにふと顔を上げてみると、何人かの若者が物陰から走り出てきて、すぐ目の前を通りかかった誰かを取り囲もうとしているところだった。
「てめえ、やっと見つけたぜ。昨日は俺達のボスに大恥かかせやがってよう…そのお高くとまったツラを二目と見られないようにしてやるから、覚悟しろ!」
一番大柄な奴が凄みのきいた声で吼える。セレインにも珍しくはない。こんなあたりを歩いているとときたま見かける光景だ。コートの襟に顔を隠し、身体を小さくして通りすぎる。巻き添えをくってもつまらない。
「恥だって…? 自業自得だろ。人のことを男娼扱いにするからさ!」
ぴしりと言い放った声に、聞き覚えがあった。
(まさか?)
反射的に振り向き、若者たち―いや、チンピラどもの一人一人に目をこらす。と、真ん中で何かがふわりと翻った。真っ直ぐで長い、絹糸のような漆黒の髪。
不意をつかれ、今凄んだ巨漢が悲鳴を上げた。自分の倍はあろうかという男を一撃で殴り倒し、少年はすっくりと、静かにそこに立っていた。
「てめえ!」
「殺してやる!」
他の連中が、口々に叫びながら少年に襲いかかった。中に、きらりと光るもの。ナイフだ。凶器まで準備してくるなんてこいつらは本気だ、とセレインは悟った。
繰り出される刃を少年は軽やかにかわし、ときおり隙を見ては相手の一人一人を確実に殴り倒していく。少年は少年でかなりの場数を踏んでいるようだった。
セレインはそこに立ちすくんだまま乱闘を見つめていたが、やがてはっと気を取り直すと急いで駆け寄った。
「あんたたち! 誰に断ってゴロまいてんだい! いい加減にしな、みっともない!」
さすがに、よく通る声である。全員がぴたりと動きを止めた。
「何だ? どこのババアだ? 余計な口出すと、てめえもぶち殺すぞ」
ナイフを構えた一人が莫迦にするように言う。
「ババアか…言ってくれるねえ。でも、ただのババアじゃないよ。あんたたち、セレインって女を知らないわけじゃないだろうね」
「セレイン?」
「セレイン…あの、噂に聞いた…」
ひそひそとささやき合うチンピラどもに、セレインはなおもたたみかける。
「あんた達の顔はしっかりと覚えたからね。ここらへんで言うこと聞いておかないと、あとで何があっても知らないよ!」
「ハッ! そんなの、今ここでてめえも殺っちまえば誰にも、何もわからねえさ」
頭に血の昇った一人が今度はセレインに突っかかってきた。仄かな街灯の灯りにも鮮やかにきらめく銀の刃。セレインは一瞬、目をつむった。
「ぎゃあああああッ!」
が、次に起こった悲鳴の主は、その男。…恐る恐る開けたセレインの目に、そいつの肩に突き刺さったナイフが、はっきりと見えた。
「え…?」
傍らの少年がいまだナイフを投げた格好のまま、静止している。
「あ…あんたが、やったの?」
少年は黙ってうなづく。片や、他の連中はすっかり度を失ってしまったようだ。
「ひ、引けッ」
誰かの叫びを合図に、チンピラどもの姿はさっと夜の中へ消えていく。ただ、遠くから最後の声がかすかに聞こえてきた。
「女のくせに余計な邪魔しやがって…覚えてろよ! この、裏切者!」
かすかに、セレインの身体が震えた。「う・ら・ぎ・り・も・の」何度聞いても慣れないこの響き。だが今は、ぼんやりとなんかしていられない。
「あんた、大丈夫?」
「ああ…おかげで、助かったよ」
少年の、声は普通。ただ、どことなく顔色が蒼いのが気になった。
「ほんとに…?」
聞き返す間もなく少年の足がもつれた。腕を押さえている。指の間から静かに染み出し、地面に落ちる、赤黒いもの。
「怪我してんじゃない!」
「何でもないさ。これくらい、かすり…き…ず」
「何言ってんの! 早く、手当てしなくちゃ! ピアノ…弾けなくなっちゃうわよ!」
セレインは少年を抱きかかえるようにして自分のコンパートメントに向かった。残りの道のりは、さほどない。酔いは、すっかり醒めてしまっていた。
傷は、大したことはなかった。部屋に戻り、手当てをしてやりながらセレインはほっと息をつく。それより少年をここまで弱らせているのは体力そのものの低下であろうと彼女は見た。セレインと初めて出会い、ほんのわずかな間に消えてしまった少年が、この数日どうやって暮らしていたのか。さっきのチンピラどもとのやりとりから、それは容易に想像できたし、また、このあたりではそれ以外の生き方ができないことはよく知っている。別に、珍しい話じゃない。
少年はソファに力なく横たわり、目を閉じている。長いまつげの落とす影がその顔を一層蒼白く見せていた。
「あんた…ちゃんと食べてんの? ねぐらは? …あれから一体、どうしてたの」
そっと手を握り、抑えた声で尋ねる。少年が、扱いづらいのはわかっていたから。それでも、なお…気になったから。
「いろいろ、訊くんだな」
うっすらと、目が開いた。深い…ちょっとみには黒く見えるほど…だけど鮮やかな、紫の瞳。
「いけない? だったらやめるわ」
「最後に食ったのは一昨日の昼。ねぐらは…ん…三日前までは、あった」
「…家は?」
「そんなもの、ないよ」
これもまた、珍しくもない。もともと、このあたりをうろついている奴に家なんてあるわけがない。たとえそれが十代半ばの少年であろうと。…セレインにも昔、そんな時期があった。
「じゃあ、あの日『アモール』でもらったお金は?」
「三日でなくなったよ。冷たい街だよな、ここは。同じ文無しでも、馴染みの相手と他所者じゃ露骨に態度が違う。むしろ気持ちがいいくらいだったよ。…自分がそんな目に遭ってる最中でなければさ」
セレインはうなだれた。言われるまでもない。この街はいつでも、他所者に対して固く扉を閉ざしてる。困っていても、飢えて死にそうになっていても知らん顔。それは昔、自分達が迎え入れた他所者にどんな目に合わされたかを忘れていないからだ。…哀しい記憶。だが、それを今この少年に話したところでどうなる? さりげなく顔を背け、黙って唇を噛んだセレインが再び少年に問いかけるまでには、ほんの少しの間があった。
「でも、あんたにはピアノ…そうよ、ピアノがあるじゃない。他所者とはいえあれだけ弾ければ、どんな店だって…」
「昨日、適当に見つけた店に雇われたよ。でもそこがとんでもないところでね。売春婦の真似ごとをさせようとしやがった。こっちもすぐに見当がついていたから、鼻の下のばして言い寄ってきた奴を叩きのめして飛び出した。…そして、あの始末さ」
「もう一度、『アモール』に行けばよかったのに」
「…あそこは、だめだ」
「どうして?」
「…危なすぎる」
それきり少年は目を閉じ、黙りこんでしまった。セレインはゆっくりとその言葉を考えてみる。危なすぎる。どういうことだろう。『アモール』はラヴォールでも一、二を争う高級クラブだ。少なくともそんな、身体を売るような真似をさせる店に較べたらずっと安全なはず。だったら何故。
「…じゃあ、あんたこれから行くところは?」
「ここを出てから探す」
言いつつ、少年は起き上がった。そのままセレインを押しのけ、出ていこうとする。が、その手の力は弱く、足どりもまだ頼りなかった。
「待って!」
セレインの白い手がさっと少年を遮る。少年は少し目を細め、右足を引いた。さりげなくではあるが、身構えている。
「行くところがないのなら、ここにいなさい」
「え…?」
細められていた目が、丸くなる。
「ここに住んで、あたしと組まない? …あたし、あんたのピアノに惚れ込んだの」
少年の身体から、すっと力が抜ける。
「それに、ちょっと事情があってお金がほしいのよ。できるだけたくさん。だけど…ま、あんたにも都合ってもんがあるだろうし、ずっとってのは無理かもね。だから、そう…三か月。三か月、あたしと組んで。それが、今夜の手当ての代償よ」
胸をそらし、命令するようにセレインは言い切った。今夜のできごとで、彼女は少年に貸しを作った。そして、彼は多分借りをそのままにして逃げるような人間ではないだろう。かなり扱いづらくはあったが、この少年の誇り高さは本物だ。あの夜、『アモール』で出会っただけのほんのわずかな印象にもかかわらず、セレインは敏感にそう感じ取っていた。人を見る目には、自信がある。しかし…
「だめだ」
返ってきたのは、そっけない一言。
「何故」
「さっきも言ったろう? 僕はこの街の人間じゃない。こんな他所者と組んだところであんたの仕事が増えるとは思えないよ。むしろ、街中に敬遠されて干されるのが落ちさ」
「だけど、あんたを雇ってくれる店はあったんでしょ。…もっとも、その理由があんたのピアノの腕なのか、あんた自身なのかはわからないけど」
意地の悪い台詞に、少年の頬がぴくりと震えた。再びその目が細められ、華奢な身体がわずかにこわばったのがわかる。しかし、彼はそこから動かない。目の前に立っている丸腰の女を突き飛ばして逃げることなど簡単なのに。セレインの自信が、さらに不動のものになった。
「安心なさいよ。別に、あんたの身体で稼いでもらうつもりなんてないんだから」
少年の身体からまた、ほんの少し力が抜ける。だが、刺すような、追いつめられたような眼差しは変わらない。
「いつまでそんな顔してるの。安心なさい、って言ったでしょ。あんたのピアノは本物よ。他所者だって何だって関係ない。きっと、街中の店があんたの腕を欲しがるわ」
今度の言葉にはこれっぽっちの嘘もなかった。それが通じたのか、少年の表情もかすかに和む。しかしそれもつかの間、少年の首は再び横に振られた。
「そこまで見込んでくれたのはありがたいけど、やっぱり、だめだ。…僕と一緒にいると、あんたに迷惑がかかる」
「迷惑、ね…あたしは、そんなのかまわない」
「え…」
「あたしは、あんたに、いてほしい。それだけよ。もしあんたが気にするんだったら、こうしましょ。その迷惑とやらがあたしにふりかかってヤバくなりそうだったら、三か月なんて約束どうでもいいわ。すぐ出ていってもらう。それならいいでしょう」
「でも、そうなったら遅い!」
「借りも返さず出て行く気?」
ぴしりと、相手の言葉を封じるようなセレインの声が叩きつけられた。少年はなおも何か言いたそうに口を開いたが何も言わず、うなだれて唇を噛む。
「大丈夫よ。これでも危険を感じ取るカンはかなりなもんなんだから。だけど、出ていってもらうかどうか、決めるのはあたしよ。もし何もなかったら、約束通り三か月、あたしと組むのよ。わかったわね」
少年はもう、何も言わなかった。
「さ、そうと決まれば早く休みなさい。あんた今調子が悪いみたいだけど、すぐに治ってもらわなきゃ困るのよ。少しでも多く、稼がなくちゃいけないんだから」
どこかうきうきとした様子でセレインは隣の寝室へ行き、男物のパジャマを持って戻ってきた。
「これでも昔一緒に暮らした男は何人かいるからね。ある程度のものは揃ってるし、不自由はないと思うわ」
夜半、ふと目が覚めた。酒の酔いがまだ残っているのか、のどが乾く。無視してもう一度寝直そうかと目を閉じたがどうにも我慢できず、セレインはのろのろとベッドから起き出した。
足もまだ少しふらついている。あちこちにぶつかり、身を支えながらやっとキッチンにたどり着き、コップ一杯の水をくんで一気に飲み干す。酔い覚めの水のうまさに彼女は小さくため息をつき、ベッドに戻ろうとした。が、思いなおしたふうに傍らの椅子に腰かけ、テーブルの上に置いてあった煙草を一本取り出し、火をつけた。
(セレイン! また煙草なんか吸いやがって! 声が潰れるぞ!)
叱りつける誰かの声が聞こえる。支配人…? いや、あの男の声だ。
ふん、と鼻で笑ってセレインは細い煙を吐き出す。笑ったのは、昔の男だけじゃない。今の自分をも、また。
(莫迦なこと、したもんよねぇ。あんなでっかい拾いものしょいこんでさ。『あんたにいてほしい』なんてよくも言ったもんだわ。このセレインさんがね)
少年への言葉に嘘はなかったけれど。
(でも、今までそれを口に出したことは、なかった。…やっぱり、気弱になってんのかしらね)
煙草をもみ消して、もう一杯水を飲む。流れ込む水に引っかかるように、こつん、とした痛みがのどに残った。セレインはもう一度、今度は深く、もの思わしげなため息をついて寝室の方へ戻りかけた。帰るついでにちょっと隣の部屋をのぞきこむ。二DKのささやかなコンパートメント。そのうちリビングルームとして使っているその部屋を、先程彼女は少年の寝室として提供したのだった。暗がりの中、少年はぐっすりと眠り込んでいるようだ。セレインは闇の中でかすかに微笑み、自分の寝床にもぐりこんだ。
翌朝。
セレインが目覚めたのはいつもよりずっと遅かった。が、すぐにそうとわからなかったのは太陽の光を遮って幾重にも重なる曇り空の所為だったろう。とにかく、彼女が今の時刻に気づいて小さな声を上げたのは、枕元の小さな時計を見てからだった。
「いけない…寝過ごしたわ」
あたふたとベッドから起きだし、ガウンをはおって隣の部屋をのぞく。少年が眠っていたソファーベッドはもぬけのからだった。
(え…?)
驚いて、あたりを見まわす。ガウンの裾を冷たい風がふわりとなびかせた。はっとそちらの方へ目をやるとベランダへ通じる窓が開いている。
「そこにいるの?」
灰色の空がほんのりと明るくなっていく。凍るような風。厚い雲に覆われているとはいえ、太陽の光がゆっくりと、そして確実に街を朝の色に染め上げていく。少年はベランダの手すりにもたれ、その様子をじっと眺めていた。
セレインの吐息に気づいたのか、その顔がゆっくりとこちらを振り向く。
「起こしちゃったかな。…ごめん」
セレインは慌てて首を振る。
「いいのよ…ただ、びっくりしただけ。だって、起きてみたらあんた、いないんだもの」
「…僕はどこにも行かないよ。約束したもの。三か月過ぎるか…あんたに追い出されるまではね」
「ま…」
セレインは苦笑した。しかしその一方、少年の言葉が嬉しくもあった。少なくとも昨夜の約束は、酔っ払った自分の妄想ではなかったらしい。
「何、見てたの」
そっと少年の傍らに寄り添いながら、セレインは尋ねた。
「街をね、見てた」
「…街?」
「淋しい街だ。…そう、思わない?」
何を今さら、という気が少し、した。もう長いこと、ラヴォールには淋しくない街なんてない。どこへ行っても、建物は時の流れに崩れるにまかされたまま、それを修復しようとか建て直そうとかいう人間達はとっくに何処かへ行ってしまった。あるいは、他の惑星へ。またあるいは、この世ではない別の世界へ。そして、かわりにやってきたのは…
遥か彼方の高台に、朝日を浴びてきらめく白亜の高層ビル街がはっきりと見えた。おそらく今のラヴォールで淋しくない街があるとすれば、それはあそこだけだろう。だが、そこは―
「…あんなに立派な都市が建つくらいなんだから、他の場所も、もう少し何とかなってもいいのにね」
いつのまにか、少年もセレインと同じ場所を見つめていた。
「そうね…」
妙な、違和感。このラヴォールに住む者なら、誰でもあの都市のことはよく知っているはず。だとしたら、決してこんなことを言うはずはない。昨夜、少年は自分のことを『他所者』と呼んだ。それは、ただこの街の人間でないだけじゃなく、この惑星の人間でもないということ? だけどそれなら、彼のこの、鮮やかな紫の瞳は?
ちょっと迷って、結局、口をついたのはごく無難な台詞。
「あそこは、特別なのよ。何てったって今は一応このラヴォールの首都なんだから。できるだけ立派にしなきゃ格好がつかないって考えてるんでしょ」
「誰が?」
「知らないわ」
「そう…」
それきり、少年は黙りこんでしまった。自分の言葉がそっけなさ過ぎたかと、セレインは少し心配になる。と…
「今のラヴォールは、あんまり暮らしやすい惑星じゃないんだね」
紫色の瞳が、セレインをじっと見つめて、そう言った。
「そう…かもね」
はっきり「そうだ」と言いきれなかったのは、そう訊いた少年の表情が、あんまり哀しそうだった所為だ。―ますます、わからなくなる。この少年はどこから来たというのだろう?
だが、そんなセレインの疑問など少年にとってはどうでもいいことらしかった。しばらくうつむき、何かを考えていたその顔が上がり、やるせない一瞥を眼下の町に投げ、少年は再びセレインを見つめ、そして、尋ねた。
「昔は、こうじゃなかったよね」
「ええ…でもあんた、そんな昔のことを知っているの?」
ラヴォールの荒廃はセレインが生まれる前から始まっていたと聞いている。もっとも彼女が小さい頃、そして十代半ばになるまではそれなりの繁栄を誇っていたのだが、真のラヴォール最盛期はとうに終わっていた。幼いセレインが信じていた繁栄、平和は、どこか知らぬ他所の惑星の人間によってあてがわれた見かけ倒しの張りぼてに過ぎなかった。…少年が懐かしがっているのはその張りぼての平和か。それにしても、その頃彼はまだ赤ん坊だったはず。まして、それ以前のことなど知っているわけがない。
(あんたは…一体誰? 一体、どこから来たというの?)
セレインの訝しげな視線に気づいたか、少年は取り繕うように言った。
「僕はずっとこの惑星の外で暮らしてきたからね。…憧れてたんだ。父や母から聞いた、美しい故郷、ってやつに」
「そうだったの」
疑問の答えは、あっけなかった。さっと吹きつけてきた風が、セレインの茶色い巻き毛、そして少年の真っ直ぐな黒髪をふわりとなびかせていく。
「じゃああんた、ここで生まれたわけじゃないんだ」
「…いや、生まれたのはここさ。でも、小さい頃に星外へ出ちゃったから」
「…」
ぼんやりと、少年はなおも街並みを見つめている。どこか遠い別の場所で育ちながら、ずっと彼はここに憧れていたのだろうか。生まれてから一度もラヴォールを離れたことのないセレインにとっては想像もつかないほど強く…その想いの深さに、セレインの胸がきゅっと締めつけられたとき。
「…リコゼッタが生きていれば、こんなふうにはならなかったかもしれない」
歌うような少年のつぶやきに、セレインははっと顔を上げた。
「リコゼッタ…? あの、サー・レ・リコゼッタ大統領? …あんた、そんな昔の話までお父さんやお母さんから聞いているの?」
その男の名は、失われてしまったラヴォールの栄光の象徴だった。ラヴォールが、ラヴォール人自身の手で統治されていた時代の最後の指導者。辺境の一惑星にしか過ぎないラヴォールを銀河系随一の大国にしようと苦心した挙句、志半ばで空しく暗殺されてしまった幻の英雄。今はその名を語るものもいない。地球連邦統治体、現在のラヴォールを思いのままにしている連中が、彼に関する記録の全てを抹殺し、彼について語ることさえ禁じているからだ。幼い頃にこの惑星を離れ、他所で暮らしていたという少年がその名を知っていたことに、セレインは感心して問い返したのだけれど。
少年は明らかにうろたえた様子で、「しまった」というように口元を押さえかけた。が、言ってしまったからにはそれも無駄なことだと思い直したのだろうか、力なくうなだれたまま、黙りこんでしまった。
「大丈夫よ。そんな、気にしないで。彼は今でも私たち皆の英雄だわ。たとえ彼について語ることが禁止されていても、ラヴォール人なら決してそれを咎めようとはしない。むしろ、あんたがリコゼッタの名前を知っていたことが嬉しいわ」
禁じられた名前を口にしたことでセレインに胡散臭く思われたのではないか―少年の戸惑いを彼女はそう解釈して、少し荒っぽく彼の肩を抱き寄せ、慰めるつもりで言った。…しかし、その言葉を聞きながら少年の表情が一層苦しげに歪んでいったことに、彼女はついに気づくことはなかった。